底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

権利に命と生の意味は守れない

普通に怖い

昨日からニュースになっている某線沿いに住んでいるのだが、ニュースに出てくる駅名など本当に馴染みがあるところばかりで、なんだか心がざわついている。こういう万が一を他人事と思う方ではないのだけど、今回のことでますます備えなくてはいけないなという気持ちが強くなった。いつ自分がどうなってもいいように後悔のない今日を生きる。やはりそれだけが私のやるべきことである。



還らぬものに権利の意味なし

権利というものについて考える。生きていることを当たり前の権利として捉え、殺人を最大の非難すべき外道な行為とすることはきっと果てしなく正しい。それは疑いの余地がない。だが、そもそも人の生は権利によって保障され得るものではないのもまた事実である。権利というものが機能するのは、あくまで回復可能な事態の時に限るだろう。誰かに骨折させられたとか、車をぶつけられたとか、そういう時相手に金銭を要求し元に戻してもらう。相手の悪意や過失による自身の損失を取り戻す、それが権利の役割である。だから、命のような一度失ったらもう二度と還ることのないものに権利があるなんてのはただの慰めに過ぎない。せいぜい相手に極刑が下るか自分が大金を手にするだけである。そんなのは権利があるとは言えないだろう。大切な人はもういないという悲しみがそんなもので癒えるはずもないのだから。自分の生を権利と捉える最大の落とし穴もここにある。どれだけ権利があろうと殺されるときは殺される、そして殺されてしまえば自分の生はそこで終わる。残酷だがこれが現実である。その現実をありのままに認識せず権利に胡坐をかいてもいざという時後悔をするのは自分自身である。一度死んでしまえばお終いである個人の生の前では、権利などなんの意味も持たないのである。



自分の命と生の意味は自分で守るしかない

自衛と警戒にも限界がある、だからやはりもう覚悟するしかないのである。死ぬ時は死ぬし、ひどい目に遭う時はひどい目に遭う。殺されたから最悪な一生だったと言って幕を閉じるのではあまりに悔しいではないか。どんな最期であったとしてもこの一生を悔いることのないように、毎日を精一杯死ぬ覚悟で生きる。結局各個人の生の意味はそうして自分で守るしかない。生まれて生きて死ぬ。それはどこまでも無意味で宇宙にとってはほんの一瞬の出来事にすぎない。人間が生きていることそれ自体に何かの正当性があるわけはないのだし、権利など所詮は人間同士の口約束のようなものに過ぎないのである。



改めて

今このブログを書いている時に死んでも後悔はないか、もう一度きちんと自分に問うてみようと思う。

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