底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

誰が悪いよりも何をすべきか

どっちの言い分も分かる

騙す方が悪い。騙される方が悪い。騙す方は悪を為しているのだから、問答無用で一番悪いに決まっている。いやいやでも備えたり警戒したりできるものをそうしないで被害に遭う人もいるのだから、それは自業自得でしょ。うーん前者を支持したい気持ちが強いが、後者も分からなくもないかも。




悪さの種類

悪さの種類が違うのだ。騙す方が悪いという時の悪いは「非道徳的悪さ」である。非人道的な行為をした、被害をつくった。つまり善悪の悪である。一方で、騙される方が悪いという時の悪いは「非合理的悪さ」である。悪人はいつの世にも五万といる。その被害に遭うのはどうせいつも他人で自分の頭には降りかからないだろうと高を括っていたのなら、それは非合理的な考え方と言わざるを得ない。両者はどちらも「悪い」という言葉で形容され得るが、一直線上に並ぶものではないのである。だから、どちらの方がより悪いのか、そのような言い争いには全く意味がないと言えるだろう。




ニホンゴワカラナイ

日本語の「悪い」とは誠にややこしい。試しに今辞書を引いてみたら、想像の三倍の数の意味が載っていた。
dictionary.goo.ne.jp




現実は大いに理不尽

非道徳的悪さで言うなら、もちろん百ゼロで加害者が悪い。これは大前提である。この意味で被害者が悪いということは絶対にできない。だが、現実は大いに理不尽である。たとえどんなに善人であろうと、どんなに徳を積んでいようと、悪に遭遇する可能性は依然としてある。それは大変に不条理で悲しく惨いことであるが、どこまでも現実である。平和に安全に生活をおくる権利は誰にでもある。これは嘘である。平和に安全に生活を送る権利は誰にでも認められる「べき」だ。これが本当である。認められるべきであるが、残念ながらその権利虚しく被害に遭った人は大勢いる。
shikouzakki.hatenablog.com




当事者でない人ができること

誰が悪い。それを決めることにそもそも意味はあるのだろうか。責任の所在をはっきりさせたい。その気持ちは大いに理解できるけれども、たいてい物事は複雑で責任は一ヶ所にはない、白黒でなくグラデーションのようになっている。その上どこからが処罰の対象になるのかは、法が決めてくれるのだから、そこに人の出る幕はないはずだ。起きたことはもう起きた。当事者でない人ができること、すべきことは責任の追及より、「更なる被害者を出さない」これに尽きるのではないか。騙される人を減らしていく、騙す人も減らしていく。少しでも理不尽な現実を変えるためにその両方の実現を目指し、どう行動したらよいのかをひらすら考え実行に移していく。それ以外にはないのではないだろうか。もちろん一番肝心で最初にやるべきことは、自分自身がそのどちらにもならないよう注意を払うことであるが。