底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

第二人称の他者は死んでも存在する

生きている人しかいないんですよ!?!?

世の中生きている人しかない。それは当たり前のことなのだけど、時々とても不気味に感じる時がある。人間は死ぬのに生きている人しかいない!え!?と驚いてしまうのだ。死ぬことは人間の一形態であり誰しも必ず死ぬのに、死んでいる人間がひとりも見当たらない、なんて恐ろしいのだろう。

 

 

死は形態変化である

人間がひとり存在するということは明らかに生きていることとイコールなのではない。人「が」死ぬという言い方をするのだから、死んだとて死んでいるという状態で存在するのである。ところが世の中を見渡してみると死ぬことは往々にしてひとりの人が消えることであるとして疎まれ、悼まれ、忌み嫌われる。ある人が死んでもその人は、生きていたという事実とともに死んでいるという形で確かにここに存在しているにも関わらず、死んだら終わりであるかのように人々は深く嘆き悲しむのである。

 

 

第二人称の他者は死んでも存在する

死んだら終わり。それはたぶん第一人称的に考えたらどこまでも正しいのだろう。死んだことがないから確信は持てないけれど、心臓が止まること、動かなくなること、身体が腐敗していくことから推察するに死体になった人はもうこの世にいないはずである。しかし第二人称にとってはそうではない。第二人称にとってある人が存在するということは、その人に関する記憶を持っていることに他ならない。会おうと思えば会えるとか、いつでも会話を交わせるとか、そんなのは副次的なものに過ぎない。たとえもう二度と会えなくても会話を交わせなくても、その人が存在しているという可能性は大いにしてあるが、記憶にない人が存在しているということは絶対にありえない。ただもちろんそれは「自分にとって」という括弧付きではある。だが自分にとって真実であれば既に充分であろう。自分にとって何かが存在するということが、即ち自分にとって「現実に」そのものがあるということなのだから。

 

 

あるものを大切にしたい

私は何も親しい人の死を悲しむべきではないなどと言いたいわけではない。ただ自分自身もう少し他者の死に対して寛容になりたいと思うだけである。死んでもその人との大切な記憶までなくなるわけではない。第二人称にとっては記憶こそがある人を存在させているのであるから、死んでも記憶さえあればその人は紛れもなく存在しているのだ。「自分にとってだけ」だとしても、その真実が嘘になったりひっくり返ったりはしないのだから、自信をもってその記憶を抱きしめてもいいのである。死んだからもう会えない話せないという「ない」を嘆くより、その人が死んでも「ある」もの、残っているものを大切にしていきたい。

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