底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

他人の価値観を受け入れられるとはどういうことか

価値観の三通りの受け入れられ方

ある価値観を受け入れられるということには三つの段階があると思う。一つ目は自分の身近にその価値観を持つ人がいなければ別に構わない、私に関係ないのならどうでもいいという態度の受け入れである。この受け入れ方はほとんど距離感によって支えられている。自分の主要な生活圏にその価値観をもつ人がいないことが必要条件である。受け入れというよりは住み分けという方が近いかもしれないが、それでも自分に関係なければ、その価値観を持つ人の行動を制限したり反対したりしようとすることがないという意味では、受け入れていると言えるだろう。二つ目は身近にその価値観を持つ人がいても、自分や自分の大切な人にそれを向けられなければ平気であるという受け入れ方である。これも言うなれば、自分に関係ないならということであるが、受け入れ度は一つ目より格段に上がっているであろう。三つめは自分や自分の大切な人にその価値観を向けられる、或いは自分の大切な人自身がその価値観を持っていても、一向に構わないとする受け入れ方である。往々にして「真の」とか「本当の」とかといった枕詞をつけられやすい受け入れ方がこれである。人によっては三つ目だけを受け入れているに分類し、あとの二つを受け入れていないと解釈することもあるだろう。この世には、拒絶以外を歓迎と解し受け入れられたとするタイプと、歓迎以外を拒絶と解し受け入れられなかったとするタイプの二種類の人間がいるらしい。




嫌悪は言語化できない

ある価値観を受け入れられない理由というのはたぶん言語化することがひどく困難である。それはむきだしの感情による嫌悪なのであって、理屈や道理などではないからである。むしろ言葉にならないからこそ、受け入れることができないとさえ言えるだろう。私はこの嫌悪をひどく受動的に捉えている。つまりそれは生まれ落ちた時、或いは生まれ育った環境によって、個人に与えられた性質であって、私が嫌悪すると決めて嫌悪しているのではないということである。だからそこに理由を求めたりは基本的にはしないし、理由を与えることはだいたいにして失敗すると考えている。多くは醜い自己正当化に終わるだけである。




真の受け入れ

私にとっての「真の」受け入れとは、その価値観を特筆することがなく、そもそも受け入れられるかどうかという基準で測られることのない事態を指す。その受け入れ方が完成している時には、人は決してそれを意識することができないであろう。平和などと同じである。平和というものが有難いと思われなくなるくらいに戦争の存在それ自体が忘れ去られた時、それこそが真の平和の訪れではないだろうか。

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