底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

【今週のお題】お気に入りの靴下とは何か

今週のお題「お気に入りの靴下」

履けりゃあなんでもいい

 

 

何が違うん

今回はいつもお決まりの「好きな〇〇」ではなく、「お気に入り」と来たか。はて、何が違うのだろう。好きとお気に入りの意味の違いなんて意識したことなかったけれど、こうしてわざわざ違う言葉にされると気になるな。

 

 

三足目が好きです

靴下をそろえるのがめんどくさいという一つの理由によって、私の靴下は全部同じところの同じものである。くるぶし丈の真っ白の靴下が八足、家のクローゼットの中に並んでいる。四足で290円と大変安価に売られていたため、某アイランドの某ヴィレッジで二セット購入したのだ。そうですね。この八足の靴下の中でお気に入りなのは、三足目ですかね。どれが三足目なのかは存じ上げませんけども。

 

 

好きを配る余裕がない

お題に「好きな〇〇」が出る度、私は思うのですけど、普通はそんな色々なものに好きとかお気に入りがあるものなのですか。私には全くと言っていいほど分からない。靴下なんて履ければいいだろとしか思えないし、好きかどうか気に入っているかどうかなんて基準で測ったこともない。私目線で見れば、そんなものにまで好きを抱いて疲れないですか?と端的に尋ねたくなるほどに不思議である。いや、違うな。事態はたぶん逆なのであろう。彼らがわざわざ疲れることをやっているのでなく、私にそのことを楽しむ余裕が足りていないに違いない。だからこそ、彼らの行動を疲れることであると捉えてしまう。私には自分の好きを色々なものに配ってやる余裕が全く欠如しているのだ。

 

 

使えるをひいた好きが本当の好き

改めて自分の好きを考えてみる。私は何が好きだろうかと。部屋を見渡して辺りにあるものを好きかどうかという基準で測り直してみたが、どれもやはり微妙である。なんというか、それらはつまるところ、私にとっては「使える」とか「便利」以上の意味を持っていない。もし「とても使える」ということがお気に入りという言葉の意味であるなら、私にもたくさんの好きがある。しかし、そうではないように思う。人が「好き」という時、それは使える・使えないの基準は抜きにしているのであろう。「使えるから好き」なんてのは、どう考えても本当の好きではないのだから。全ての自分への有用性をとりのぞいても尚好き、それが好きということの本質であるはずだ。その靴下を眺めるだけでルンルン気分になったり、クローゼットに丁寧にしまったり、穴が空いた時には必死になおそうとしたり、捨てる時には未練タラタラであったり、お気に入りであるという気持ちは、それをそれとして使っていない時の行動にこそ表れるのだろう。

f:id:kabiru8731:20211122021025j:image