底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

自分を変えるべきか世界を変えるべきか

どっちを変える?

自分を変えるか、世界を変えるかの二択が目の前にあるとしたら、一体どちらを選ぶのが正解なのだろう。何かとてつもない不快を感じた時、それは不快を与えた世界のせいにすべきだろうか、それとも不快を感じとってしまった自分に責任を帰すべきだろうか。不快は避けられるものではない。そういう意味では世界のせいと言えるだろう。少なくとも私は意図的にその不快を選びとってはいないのだから、私のせいでないことははっきりしている。だが、世界の方とて不快を与える対象を私と決めて、悪意的に与えてきたのではないだろう。ほとんどの場合はたまたまである。そこにいたのがたまたま私だったから、私の身に降りかかってしまった。それだけのことであろう。




運が悪いのは誰のせい?

不快を改善する時、私は不快を感じた自分自身を変えるべきだろうか。それとも、不快を与えた世界の方を変えようと動くべきだろうか。これはとても難しい問題である。なぜなら、両者とも悪くないのだから。何を改善するかをどう決めたらいいのか、その指標となるものが全然ないのである。とどのつまり事実としては、それはどちらのせいでもなく「運」が悪いということなのだ。だが、それで片付けてはいけないことが沢山あると人は考える。だからこそ、この世には様々な不運救済システムがあるのだろう。




コスパ重視

どちらかと言えば、私は自分に責任を問う方である。それは自分が悪いと思っているのではなく、自分のせいにした方が圧倒的に解決策を講じやすいからである。世界を変えるのは難しい、自分を変えるのは容易い。私の目的は「自分が」不快を感じないようにすることであるのだから、世界の不快の本を正すように動くより、自分の精神を鍛えたり、身を置く環境を変えたりする方が、はるかにコスパがいいのである。




世界は私のために、私は私のために

世界と自分とを別々のものと捉えることが既に誤りなのかもしれない。不快を感じる私と不快を与える世界とは最初から一体のもので、二つはただのコインの表裏ではないだろうか。感じるということに人の意志は入り込めないけれど、だからと言ってものごとの方に不快感がこびりついているのでもない。不快感とは、その狭間にあるものなのだろう。世界は常に自分を通してしか見ることができないし、自分を通して見えるものは常に世界だけである。そして、その見ることを担っているのが感覚に他ならない。感覚がコインであり、その表裏が自分と世界である。だからこそ、どちらを改善すべきかは、まさにコインのようにコロコロ変わるものであるし、表と裏どちらを改善するように動いても、それは結局同じことなのではないだろうか。

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