底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

結局人は変われるのか変われないのか

きのことたけのこどっち派?

「人は変われますか?」と問われたら、一体「変われないよ」と答える人と「変われるよ」と答える人と、どちらが多いんだろうか。

 

 

すごい時代よね

性別や容姿、身長さえある程度変えられる時代である。人々の変わりたいという思いに確実に時代が追いついてきている。あと目に見えるもので変えられないものってなんだろうか。もうほぼほぼないんじゃないか。よくよく考えると、いやよくよく考えなくても、人間の進歩って本当すごいな。

 

 

自分の何か一つを変えたぐらいで理想の自分になれるとは思えないから何もかも変える気になれない

目に見えるもの、見えないものに関わらず、人が自分のある箇所を変えたいと思うのは、その箇所を「本来の自分」或いは「理想の自分」の姿ではないと感じるからであろう。つまり、自分を変えたいという願いは常に現在の自分を否定していることを意味する。その事には私も酷く共感する。今の自分は理想ではない、どこかが違う。生きていて常々感じていることである。私と彼らの違いはそう、どこが違うかを理解しているのか否かにある。或いはこう言ってもいい。私は自分のある箇所が理想ではないと感じているのではなく、自分の存在そのものが違うと感じている自己否定野郎の極みなのである。

shikouzakki.hatenablog.com

 

 

変わるとは何か

Aが☆になる、これを人は変わったとは呼ばない。なぜなら人にはそれを変化と認識できないからである。変わるということは、変わらない軸があるからこそ、理解可能な概念である。〇〇が変化したと言える為には変化した後のそれも、〇〇であると認識できなければならない。〇〇を〇〇と認識できるだけの何かが残っているからこそ、人はそれらを二つの別のものとは認識せず、〇〇「が」変わったと言うのである。人間にはAがA'になるくらいの変化しか受け入れられないのだ。

 

 

無になる以外の変化って結局ねぇ…

AがA'になる、これは私にとってまるきり意味が無い。だって私はやっぱり存在するじゃないですか。無になる事ができない、他の一切の変化に魅力を感じられない。無になる以外の変化は全て「私が〇〇になる」という形をとる。だからこそつまらない。依然として「私が存在する」という形式があるのなら、その内容がどう変わろうと、そんなの微小の誤差ではないか。無になるということは端的にそれらと区別される。まさに上で述べたような、変化とは言えない変化である。もうこの場合は「私が変わる」とは言えない、変わる主体が消えてしまうのだから。私が無になるのではない、無が私になるのである。

 

 

禁句:きのこもたけのこも同じじゃね?

人は変われる、人は変われない。これ結局同じことを言っているんじゃないですかね。変われることは変われないことに対して変われるのであり、変われないことは変われることに対して変われないのだから。

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