底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

何も頼らないという形の信頼

信じると信頼は全く異なる

他人を信じられないが、信頼はできる。信じると信頼するは私にとって全く異なることである。信じるは自分が主語であるのに対して、信頼は相手が主語である。信じるのは自分で、信じて頼るのは相手である。私は絶えず人のことを疑っているが、同時に人のことをどこまでも信頼しているのである。信頼するということを私は完全に独自の意味(?)で使っている。ここでの信頼するという言葉の意味は「相手は常に相手自身の人生が最善になるように生きているに違いない」である。普通の意味とは随分かけ離れているが、私にとってはそれこそが信頼するということなのだ。




人を信じない

例えば、私は目の前の人が私の財布を盗むかもしれないと考える。或いは私のスマホをたたき割るかもしれない。はたまた私を突然刺してくるかもしれない。その可能性を私は切り捨てることができない。自意識過剰と言われれば確実にそうである。だが、その可能性が万に一つより少なくとも、やはり端的に起きるかもしれない。少なくとも絶対に起きないとは言えないのだから、私はそれに備える必要があるのだ。覚悟しておきたいのである。もし本当に起きた時でも自分の人生を満足の状態に保てるように。慢心でなんとなく信じて、こんなはずじゃなかったと嘆くのは嫌なのだ。




何も頼らないという形の信頼

そういう意味で私は人のことを全然信じていない。むしろ、疑って疑ってキリがない。だが、それでも私は他人のことを心の底から信頼しているのだ。実際に私の財布を盗んだ人がいたとしよう。その行為を私が許せるかどうかは別として、私はそれをその人にとってはどうしてもそうする必要があったことなのだと解釈するのである。それは私に向けた特定の悪意ではなく、ただその人がその人の人生の必要性に駆られてしただけであると私は考えるのだ。それが私にとっての信頼の形である。何も頼らないという形の信頼なのだ。相手は相手の最善を生き、私は私の最善を生きる。そしてその最善どうしがぶつかりあったら、それを運なのだと解釈し、仕方のないことであるとして受け入れる。だって最善を尽くしたのだから、端的にそれ以上どうすることもできなかった。私はみながそのように生きているのだと、まさに信頼しているのである。




信頼は独りよがり

もちろんそれは独りよがりの勝手な信頼なのかもしれない。だが信頼とは得てしてそういうものであろう。勝手でない信頼などもはやただの取引である。一方的な信頼だとしても、相手がどんな行為に出ようと、どんな結果を引き起こそうと、それを相手の悪意と捉えず、自分への攻撃と思わず、その中から信頼の形を見出せる。それができれば十分ではないだろうか。

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