底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

見殺しという言葉があまりしっくり来ないという話

殺しのインパクトが大きすぎる

「見殺し」という言葉がある。その場に居合わせたが運の尽きと言わんばかりの言葉である。見て見ぬふりをするだけで見「殺し」。うーん言い過ぎなのでは?と思わずにはいられない。だって好きで見たのではないのですよ、たまたま遭遇して、たまたま見てしまっただけ。それだけで、助けるなどの何かしらの行為をしなければ「殺し」っていくらなんでもちょっと酷くないだろうか。確かに、見殺しにされる方から考えれば「いや助けろよ」と確実に言いたくなる。見て見ぬふりなんて人としてどうかしてる、と罵声の一つでも浴びせてやりたいとも思う。だが、自分がこんなに辛くなっているのは見て見ぬふりをしたその人の責任だ、というのはやはり違うし、端的に言い過ぎであろう。その人は自分の辛さを取り除いてくれなかっただけで、辛さを与えている元凶ではないのだから。




助けることは正義≠助けないことは悪

見ただけで何もしない。それは得てして人々に悪い印象を与える。倒れている人をより惨めに見せるために、群衆がその横を何食わぬ顔で通り過ぎていく演出をドラマやアニメなどで時々目にすることもある。前提として、助けることが最も正しいということに異論はない。しかし、その反対にある助けないがそれ故に間違っていて、しかもその上悪であるというのはどうも腑に落ちない。人間誰しもそれぞれに自分の人生がある。その自分の人生を犠牲にしてでも、目の前の人を助けなければならない義務があるというのなら、その義務は一体どこから生じているのだろうか。




自分のことから

もちろん、ピンチの時に皆で助け合える方がよりよい社会であるのは間違いない。持ちつ持たれつでお互いに助けたり助けられたりする方が自分にとっても相手にとっても心地よく、都合が良いに決まっている。だがその前にその社会を支える根本の土台として大切なことがあるのではないか。即ち、まずは自分のことから、という当たり前である。




物騒なのよ

困っている人を見かけたら助けられる限りで助けた方がいい。このくらいの言葉でいいんじゃないかと思う。絶対に助けるべきだ、助けないのは見殺しにすることと同じだ、というのは反面自己犠牲を正当化したり美化することに繋がりかねない。それはつまり結果的に、より助ける必要のある人が増えてしまうことを意味している。どう考えても本末転倒であろう。「自分」は何を差し置いても重要であり第一に守るべきもので、他人のことはそれからだ、という方がだいぶ健全な社会のように、私には思える。「見殺し」なんて物騒な言い方、社会にとっても個人にとっても、およそ毒にしかならないのではないだろうか。

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