底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

なりたいものに近づく方法

「そうなりたい」と「そうある」の断絶

何かに「なりたい」。そういう欲求ってなんだか変だなと思う今日この頃。だって自分が「なりたい」と思っているあれやそれはただ「そうある」だけであって、つまりは当たり前のことであるが、既に「そうある」ところの彼らは「そうなりたい」という思いを抱いているはずなどないのだ。自己肯定感高くなりたい人と既に自己肯定感が高い人の間にあるような断絶がそれである。既に自己肯定感が高い人は、当然のことながら自己肯定感高くなりたいなんて思ったりはしないだろう。なぜなら既に自己肯定感が高いからである。むしろそう思わないことが自己肯定感が高い証拠とさえ言うことができる。要は自己肯定感高く「なりたい」と思っている限り、自己肯定感高く「ある」ことはできない。「そうなりたい」と「そうある」は、どうやらそういう何ともいじわるな関係をしているらしい。



あり方を変えると自分はいなくなる

「そうある」人に「なる」というのはかなり難しい。自分は今「そうある」彼らとは違ったあり方をしているからである。あり方とは、字面の通り「有る方法」、つまりは「存在の仕方」の意味なのだから、それは存在者、特に自己同一が命綱であるような人間には変えることができない代物なのである。自分の存在の仕方を変えることは、そのまま自分がいなくなることを意味している。人間がひとり存在するということは即ち、そこにある特定の存在の仕方がひとつあることを示しているからである。存在の仕方は言わば、自分という存在者にピッタリ張り付いているのだ。




自分は死ぬまで自分

だが、そうしたら一体人はどのようにして自分を変えたらいいのだろう。あり方が既に固定されているのなら、もはや別の自分になるなど不可能な事態ではないか。そうなのだ。それは完全に不可能なのだ。自分は死ぬまで自分であることしかできない。こんなの言うまでもなく当たり前なことであろう。




なりたいものに近づく方法

自分のあり方は変えられない。逆説的であるが、そう自覚することがむしろ自分を変えることの第一歩なのだ。なぜなら、自分がどういうあり方をしているのか、どこまでが自分のあり方なのか、それを知ればこそ、残された変えられるものを変えていけるのである。変えられないものは何か、変えられるものは何か。しっかりと分類し、変えられるものだけに目を向けていく。自分の根幹を一気にひっくり返すのは無理であるが、その周りの変えられるものをチビチビ変えていけば、いずれ自分でも気づかぬうちに、自分の中身が総入れ替えしていることになるだろう。「有り方」は変えられなくても、少しずつ「そうある」ことはできる。「なりたい」に近づく方法は、それしかないように思うのである。