底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

ここという居場所を街中につくる

ここが好き

街の散策をするのが好きだ。知らない街にも知っている街にも、とにかく時間ができると外に出かけるようにしている。一つは歩くのと写真を撮るのが好きなのでその両方を叶えるため、二つは第三人称の他人に囲まれるため、そして更に三つ目の理由がある。それは「ここ」と言える場所をできるだけ増やしたいからだ。 ここは私が現にいる場所、或いは過去にいたことのある場所に使う言葉である。それが増えるということは私の世界の拡大に等しい。自分にとって厳密に存在しているのはここだけである。ここ以外の場所は全て実体のない観念の域に属しているのだ。
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ここと自分は一心同体

もちろんだからと言って、ここ以外の場所だってちゃんと存在している。ただその存在はやはりどこか他人事なのだ。そことかあそこという言葉の響きそのままに、要するに自分がいるのではない、いたことのない場所がそう呼ばれるのである。そういう場所は良くも悪くも自分とは関係がなく、私には何ら影響を及ばさない。自分にとっては全く意味のないところとして存在しているのである。だが当たり前であるがここはそうではない。ここと自分は絶対に関係すると、言葉の意味により既に決められている。私がいない世界にここは存在できない。逆にここのない世界にも私は存在できない。私とここは一心同体、離れることは決して叶わない共依存の関係なのである。




街中に居場所ができる

ここが増えれば増えるほど、私は自信に満ちてくる。こことは端的に言えば自分の居場所なのである。誰も自分の替わりにここにいることは出来ない。それはつまりその居場所は誰にも奪われないということ。それがどこの街中にもあると想像しただけで、とても胸がワクワクする。ここもここもここも全部全部自分の居場所なんだ!イェーイ!!




ここを後ろ盾に

自分は実際にこの場所を知っている。それだけのことが、私に大きな安心感をもたらしてくれる。人生で何があっても、いざという時にはここに来よう。そう当てにすることができるからだ。誰にも奪われないそういう居場所が多ければ多いほど、当然その分だけ自分は強くなれる。そのために、私は街中の至るところにここを刻みつける。自分にしか見えない自分の痕跡をそこら中に残して、記憶にそっと仕舞い、いつかのためにとっておく。大丈夫、私にはここもここもここもある、だから別にどうだっていいや、なるようになれ。ここという後ろ盾があれば自分の人生にもそうして距離をとることができる。思い詰めることもきっと減っていくだろう。