底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

根拠なきものに対しての正しい態度とは

信じるべきが疑うべきか

信じる根拠がないから疑う。疑う根拠がないから信じる。他人に対して、できごとに対して、一体どちらの態度でいるのが正解なのだろう。疑うことは時に周りに煙たがられたり却って自分自身の不信感を呼び寄せたりするが、真実を知るための手段としてはかなり有効である。疑うことによって、嘘に振り回されたり騙されたりの被害を回避し真実に基づいて正しく生きることができる。一方で信じることは裏切られたり身の危険に晒される可能性を伴うが、人同士の関係を暖かいものにしお互いが生きていて心地よいと思えるような社会を創りあげることができる。




疑う派

個人的なことを書かせてもらえば、疑うことの方が私はどちらかと言えば好きである。世の中のできごとや目の前の人の言動に対して一歩距離を置いて、それは本当はどうなっているのか相手の真意はどこにあるのかとよくよく考えてから、それらに対する自身の態度を決めたいからである。無根拠に何かを信じることは自分が被害者になるだけでなく、加害者に回る可能性も孕んでいる。デマを拡散したり詐欺の仲間入りをしたりするのは勘弁なので、なるべくその事態を回避するために疑いたいのである。




正解がなくとも

世の中には真実と嘘とが混在して存在している。無根拠で疑えば、誰かの真剣な思いや命がけの告白を無下にするかもしれない。だが無根拠で信じれば、嘘や悪いことに振り回され自分自身の人生そのものが台無しになるかもしれない。その中で一体人はどういう基準で自身の態度を決めたらいいのだろうか。そこには正解なんてないのかもしれない。だがこれは個人の価値観次第などと言って片付けていい問題でもないだろう。善悪に直結することであるのだから、現に正解がなくとも正解を導こうとする姿勢は放棄してはいけないのである。




大事なことは

信じるにしても疑うにしても、慎重になる必要があるということは共通しているように思う。根拠がないものに関して正しさは常に揺れ動くことになるのだから、自身の中にある態度にカッコ仮をつけて暫定的なものとしておくのは、すごく大事ではないだろうか。生きている限り絶えず様々なものに対し態度をとらなければならない。例えそれが無根拠なのだとしても、人である限りこれは免れることのできない事態なのだろう。だがだからこそ、一つ一つのできごとに対し一人ひとりの人に対し慎重になり、どんな態度も絶対的で不変的なものとはせず、常に考え態度を更新する用意をしておくことが必要なのではないだろうか。

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