底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

前提は前提されている

前提は前提されている

人にも世界にも、前提というものがある。前提には根拠が必要ない。とにもかくにも、それを当たり前とするのがまさに前提の意味だからである。自分は生きている。世界は存在している。それらは根拠など少しもいらないくらいに自明なのである。もし疑うのなら、疑う方にこそ、それを疑わしいとする根拠を提示しなければならない。何かが前提であるとは、即ち頑丈な盾にその何かが守られるということなのである。同じ硬度の矛を持ってきても太刀打ちはできない。盾の硬度を遥か上回り、一撃でその盾を突き破れるような矛でないと前提の方はビクともしないのだ。




同じようなものは二ついらない

自分の手の中にあるものと同じようなものがお店に並んでいても、それのコレクターでない限り普通は欲しくならない。なぜなら、もちろん既にそれを手にしているからである。ではなぜ同じようなものなのに、お店に並んでいるものではなく自分の手の中にあるそれがいいのですか?と聞かれても、既に自分の手の中にあるから、としか言いようがない。手放す理由がないのだもの。同じようなものなのに、わざわざ自分が持っている方を手放して、お店のに並んでいる方を買う必要なんてどこにもない。当然である。




前提は事実を越える

そのものが本当に本当なのか、そのものは今でも自分にとってよいものなのかということも普通は気にしない。というより気にすることができないくらいに、それはもう生活に溶け込んでしまっている。それによって生活に何かしらの不具合が起きた時でも、その原因を突き止めるのは困難を要し、大抵は分からなかったり見当外れであったりして更なる不具合を呼び寄せることになる。当たり前になりすぎたために、どうしてもそのものの本来の性質が忘れ去られてしまうのだ。地球は明日も存在していると「なぜか」前提されている、本当はそんな保障はどこにもないにも関わらず。だが、仮に明日地球はなくなるかもしれないと口にしてみたところで、この人は頭がおかしいと思われるのがオチである。なくなると言える根拠がない限り、地球は絶対になくならないのだ。なぜなら、我々がそれを前提としているのだから。




やけにその人種に詳しいですね…

自分の中に眠る前提を掘り起こすのはかくも難しい。まずその前提を認識することすらままならない。前提を疑うには、その前提を疑うための新しい前提を更に手に入れる必要があるが、しかしそれは普通に生きているだけでは意識のセンサーに引っかからない。今ある前提を疑いたい、というある意味では極めて頭のおかしい欲求を抱かなければいけないのである。それを抱くことにどんな意味があるのか、と聞いてはいけない。ある種の頭がおかしい人にとっては、今ある盾を自分の矛で突き破るそのことだけが生きることの喜びなのである。