底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

失ったものは取り戻せない

歳はとりたくないな

私はずっと何かを取り戻そうとしているような気がする。それはたぶん十代の自分と、自分が産まれる以前の世界だ。歳をとるとは私にとって日に日にノイズが大きくなることを意味している。そのノイズを毎日どうにかこうにか消して、奥底にある私の本質を引っ張り出してくる。二十代の私がやっているのは、ずっとそんな作業である。いつか自分が丸ごとノイズに飲み込まれ、何もかもを忘れてしまうのが怖い。だから、とにかく自分を取り戻そうと毎日必死に抗い続けている。これから先、歳をとるごとにノイズはますます今よりも凄まじい勢いで押し寄せてくるのだろうと想像する。やっぱり、いつかは負けてしまうのかな…。

 

 

コナンくんの逆に憧れている

ここでのノイズは、世間的に言えば「大人になる」ということかもしれない。思ってもない事を平気で口にできたり、今だけだと割り切って簡単に自分の信念に背いたり、分からないことには都合よく目を瞑ったり、そういう世の中だからと、自分も流されていくような、そして、そうである自分にもはやなんの疑問も違和感も感じないような、それが私の想像する「大人」である。酷く稚拙で偏った見方なのは自覚している。たぶん、私にはなりたいと思える大人像がないのだろう。いやもっと厳密に言えば、私がなりたい大人像は、得てして中身は子供のままで、見た目だけが大人になっているということなのである。

 

 

とりもどすなどできない

私の抗いは大方もう既に敗れているのである。だからこそこのブログは誕生した。もうただひとりだけで自分自身であることができないから、他人を利用して自分自身であろうともがいているのである。しかしもちろんその企みも見事に失敗している。失敗しているから、今日までこのブログは続いてきた。物事は取り戻そうと考えたその時にはもう手遅れだ。無くしたからこそ取り戻そうとするのだから、これはいわば当たり前である。どんなに頑張っても、せいぜいは取り戻せたように見えるだけで、取り戻されたそれは既に変質した別物である。一度失ったものは決して戻らない。時間は決して逆行しない。この世は残酷である。

 

 

でもやりたい

十代の頃、私はこの世にはいなかった。私はまだ生まれていなかった。私と世界とは同じ意味の言葉で、世界はそのまま私であり、私はそのまま世界だった。不可分であるという以前に、そもそも一つのものだった。だが、いつしかそうではなくなった。世界はそれを機に三つに分離した。世界、私、他人の三つである。私は他人と同じで人間の一人なのだと自覚を強いられた。と同時に世界は私とは違う客観的なものとして立ち上がった。本当はその時点で全てがもう手遅れだ。でも、それでも私は取り戻したいと思う。

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