底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

なぜ私は存在するのか

人生の不思議

人が生まれる。それは精神と肉体、非物質と物質が結合された一つの何かしらが生まれたということである。現在、世界には約七十八億個のその何かしらが存在している。そこまではいい。問題はその中の一つが「私」であるということだ。七十八億きっかりだとすると、七十八億分の七十七億九千九百九十九万九千九百九十九人はただそこに存在しているだけなのに、残りの一つだけがなぜか「私」という形であるのだ。どう考えても変であろう。今、私が私と呼んでいるこいつだって、その七十八億九千九......と同じように「私」という形でなく、ただそこに存在すればよかったではないか。実際、何十年前には世界はそのようにあったし、何十年後にはまた世界はそのような形に戻るだろう。なぜ、この数十年だけこんな特別なあり方をしているのか。そして、この特別さは一体何がそうさせているのか。何度も書いてきたが、人生において最も謎なのはやはりこのことである。




「私」なんかいなくてもよかった

「私なんかいない方がよかった」そういうセリフを時折耳にするが、全くもって同感である。ただ私が言っているのは「私という人間」ではなく、純粋に「私」がいなければよかった。いや、いなくてもよかった。完全にいる必要がない。「私」であるこの人はいてもいい。ただ他の人と同じようにあればそれで。なぜこの人の目からだけ「実際に」ものを見ることができるのか。なぜこの人の考えだけが「内側から」読み取れるのか。




身体のつくりはみんな同じなのに

他の人にも同じように脳があり、同じようにその中でなんちゃら物質が蠢いている。目や耳やその他のあらゆる器官の構造も、個人差レベルの小さな違いを除けば同じである。でも、この人の耳からだけ「直接」に音が聞こえる。他の人の耳から聞こえると感じたことは一度もない。その差異はどこから生じているのだろうか。この人が「私」で、他の人は他人だから?それはただのトートロジーであろう。説明にはなっていない。




謎は残る

生きていることも、死ぬことも実はあまり不思議なことではない。それは生物としての当たり前である。生きているべきだ、死ぬべきだ、そういう論争も実は大して重要ではない。「私」の存在の前に生死とはそもそもどんな意味なのか、よく分からないからだ。世界の中にいる自分に慣れすぎると、この端的な「私」の謎を忘れてしまいがちになる。こんなにも変なことなのに、時々「私」も他人と同じように精神があって、肉体があるだけのひとりの人間なんだと本気で思ってしまう。それもある意味では間違っていない。だがやはり、それだけでは説明しきれないものが存在しているのである。

f:id:kabiru8731:20220111045756j:plain