底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

人を人たらしめているものはそんなに多くない

人を人たらしめているものはたった一つ

人と人の間には必ず同じでなければならないことと、たまたま同じであることがある。つまり、人を人たらしめていることと、あくまでそういう特性や傾向があるに過ぎないことの違いだ。人を人たらしめていることは実はそんなに多くない。つまるところ、それはたった一つ、自分があるという感覚だけである。あとは全てがおまけに過ぎない。問題はその感覚を生み出しているものがなんなのか、ということだがこれは難問である。一層何が関係していないのかと問う方が遥かに正解に近づきやすい。

 

 

想像できるかが基準

例えば、夕日を実際に見たことがあるかどうか、これは絶対に関係ないと分かる。見たことがあろうがなかろうが、 自分はあるに決まっている。なぜ決まっているのかと言えば、それは想像できるからだ。夕日を実際に見たことがある自分も、一度も見たことがない自分も簡単に想像できる。だからそれが、自分があるという感覚には関係ないしていないとはっきり分かる。即ち、個人にとって、人を人たらしめているものとそうでないものの区別は、そうであったりなかったりするところの自分を想像できるか否かにあるのだ。どちらも自由に想像できるのなら関係ないのだし、片方しか想像できないのなら端的に関係しているのである。

 

 

想像と実際にはズレがある

しかし、これはあくまで個人の判断基準の話に過ぎない。例えば髪の毛を五本なくした場合の自分を全く想像できない人がいたとしても、それは単にその人の想像力の問題で、実際にそれだけのことで、その人の自分があるという感覚がなくなることはないだろう。個人の想像と実際にズレがある場合はとても多い。やはり実際のところがよく分からないからだろう。何故に自分があるという感覚があるのか、検討もつかないから、実際よりも著しく広い範囲で考えてしまう。そうすれば、その広い範囲さえ守っている限り、自分があるという感覚が消えることはないから。

 

 

現実は現実なのだから自分の想像力の問題

だが、そのことが原因で多くの軋轢が生まれている。広範で考えすぎたために、そうであったりなかったりするところの自分を自由に想像できないものがあまりに多くなって、現実さえも蝕んでいるのである。自分の想像を超えた他人の存在を拒絶する事態に至っているのだ。そうである自分が想像できないから、そうである他人を受け入れられない。これは偏に自分の想像力の問題なのだが、当人の目には他人がおかしな仕方で存在しているように映る。たまたま同じであった人が多いだけのことを、人と人の間の必ず同じでなければならないことと勘違いするから、そうなるのだ。

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