底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

生きていることの価値をどこに見つける

価値はないけど価値が必要

生きていること自体には、本来如何なる価値もない。言うなればそれはただの自然現象であり、何の気なしに生まれ、そしてやがては消滅する存在のその一つの過程であるだけに過ぎない。決して何かの理由があってあるものではない。だが人間はそれに満足することができない。理由がないとしたら尚更なぜ生きていくのかとより一層問うてしまう。人間には死を選ぶことができるからだ。死を選べるのに、なぜそれをしないのか、それをしないでいるだけの価値が本当に生にあるのか、そう問わずにはいられない、必ず生に価値を追い求める生き物なのである。

 

 

中に価値を見出す人

本来は価値がないけれど、人間には価値が必要不可欠というその交錯する現実を生きていかなければならない。だからどこかに価値を見出したり、創り上げなくてはいけない。ほとんどの人は生きているの中で、それを行っている。親しい人との関係であったり、何かの生きがいや、楽しくて夢中になれることをバネにして、人生に立ち向かう。こんな幸せがあったのだから、こんなことをやり遂げたのだから、こんなにも充実した日々を送れたのだから、自分の人生には価値があったに違いない。確信と共に死んでいくことができる。

 

 

中に価値を見出せない人

だがそれができないという人が必ずいる。誰とも心の交わる関係を築けず、大したことも成せずに、特に何にも心酔するほどの楽しさを感じることなく一生を終えてしまうような人が自分の人生に価値を認めるにはじゃあどうすればいいのか。多くの場合、それに対するアドバイスは結局上記のいずれかを手に入れましょうという、それができないからこそ困っている人々にとっては酷く虚しい響きのものとなっている。そうじゃなくて、あぶれたままでも自分の人生に価値を見つけられる方法はないものかと探し求めている人が世の中には存在しているのである。

 

 

死ではもう力不足

死がもっと今よりも身近にあった時代、生はきっとそれだけで価値であったのではないかと想像する。今にも死んでしまうという思いが常に腹の底に溜まっており、それ故に生きていることは有り難い奇跡だとされやすかったのではないだろうか。しかし今の時代幸いにも多くの人にとって死は遠いものとなった。それに伴って、死によって生の価値を認めることも難しくなってしまった。もう新しい方法が必要なのである。例えば、自分が生まれてくるそれ自体がとんでもないことなのだというところに目を向けてみる、とか。他でもない自分が生まれ今を生きている。世界にこれだけの人がいて、過去にもたくさんいたし、何百年何千年先の未来にもきっとたくさんいるのに、しかし、その中で一人だけが自分なのだ。その謎の深さを思えば、今自分がこうして存在しているそのことが一つの奇跡に成り果てるであろう。尊く価値のあるものだ、と自然に思えてくるのではないだろうか。

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