底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

抽象についての緩い雑談記事

書くことがなかった

考えに考えたが何も言葉が出てこず…。仕方ない雑談をしよう。ほぼ毎日書いていると決まって月に数日はこうなってしまうようだ。別に書きたいことなどないというスタンスで始めたのに、ネタが思い浮かばない日が月にたった数日なんて、奇跡に等しい。それでしかも一年以上やってきている。意味が分からない。人生とは誠に不思議だ。奇跡って普通にそこら中に落ちてたりするんですね。びっくり。もっと出会う頻度が低いものかと思ってた。

 

 

抽象のストックがきれた

いやー雑談にしても全然話すことがないな。というよりブログで話せるものがないな。このブログの過去記事を見て貰えれば分かるのだが、およそ八割が抽象的な記事である。固有名詞はもちろんのこと、世の中の具体的な対象もほとんど言葉として出てこない。それは別に意図的なことではなく、ただ私がそういう比較的普遍性が高く時代を超えても意味が伝わりそうなことが好きだから、自然にそうなっているだけである。だが自分の中も常にそんな抽象的な話で溢れているのかと言えば全然そんなことはない。具体的なことがいくつもある。それらが時間とともに勝手に抽象化された後で、このブログに記事として載っているのだ。今の私はまさにその具体的なものしか腹にない状態なので、何もここには書けないというわけである。

 

 

具体に興味を持てない

私は具体的なものに関して本当に興味が持てない。具体的なものがあるから抽象化できるんだぞとは知りつつも、いつも抽象化の作業とその抽象化された後のものしか面白く感じられない。だって具体的なものはつまりは偶然であって、その性質があるものなら何でも良かったじゃないか。大事なのは事柄の性質だけで、その他はただのノイズだろとかついそんなことを思ってしまう。そんなノイズを考えたって仕方がないだろと。

 

 

抽象的なものがあまりに少ない

世の中というのはなぜこんなにも具体的なもので溢れているのでしょう。個人的にはもっともっと抽象的なものが日常化してもいいのになと思う。例えばみんなで抽象的に死について考える社会など、すごく健全だ。少なくとも今の、死という言葉を発するだけで具体的な死を連想させてしまうからやめなさいと注意されるようなのよりはずっといい。死とはそもそも何かを問わずして人は一体何を恐れているのか。その恐れているものは「本当に」あるのか。自明と思われていたものは大概、抽象化するとよく分からなくなる。人の知性の活動というのは、具体から抽象化しその分からなさを紐解いてから、再び別の具体に戻し応用していく繰り返しなのだろうと思う。

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