底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

進歩し続けるから変わらないでいられる

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私はたぶんもう一生変わらないのだと思う。だってもう一生変わらなくてもいいやと自分で思っているからね。でもそれは進歩しないって意味じゃない。変わらないけれど進歩はする。むしろ、ずっと進歩し続けるという意味で変わらないのである。具体的に何を進歩させていくのかと言えば、それは自分自身だ。つまりは、思考を研ぎ澄ましたりだとか、自己認識を深めたりだとか、世界をより一層理解したりだとか、私は死ぬまでそんなことをやり続けたい。

 

 

2

そうすれば、自分の自由を開いていけるからである。何度も書いてきたが私の人生の目的は後悔のない死だ。そのためにはあらゆるものから自由になっていく必要がある。唯一考えることだけがそれを可能にする。考えるとは物事を正しく位置づける行為である。物事同士の関係や、そのものの本来の意味など、考えていないと、自分の認識がそこからズレていることが多々発生する。それはそもそも人間が偏った見方でしか世界を見ることができないからだ。考えるとはその見方を補正していく作業なのである。物事を正しい位置に戻してやっと、そこから何かを選ぶということは自由な行為となる。でなければ、ただ間違った位置付けに惑わされただけな可能性が残り続けてしまう。

 

 

3

生死からも自由になる。それが私の最終目標だ。とすると、それは一体どのように達成されるのか。やはり生と死をよく知り、それを正しく位置付けていくに限るであろう。自分はまだ生きたことしかない。だから、死が何も分からない。そのため、生死を正しく位置づけようと思うなら、生を問うていく他にない。生とは何であり、どのような形で存在しているのか、とことん考えて、正しい認識へと近づいていく。しかし、死の側から人生を問うことができないので、どれだけ問うても結局、分かるのは半分だけである。分かるのが半分だけというのは、つまり何も分かっていないのとほぼ同じだ。よって、この作業は終わりはやってこない。だからこそ、私はもう一生変わらない、変わることができないのだ。

 

 

4

だが、このことによってことは二重構造になる。自由を求めて私は生を問う。その限りで私は未だ自由には辿り着いていない。しかし、生を分からないものとして問うこと、それ自体が正しい認識に基づいた私自身の選択ではあるまいか。よって既にして私は自由なのだと言えるのではないだろうか。大丈夫ですか?誰かついてきてますか。続けますね。私はちっとも自由ではないが、同時に果てしなく自由なのである。一面では私は自由になるために、ずっと生を問うて進歩し続けなくてはならない。だが、それをしている時には、私はもはや完全に自由なのである。進歩し続けるから、私は変わらないでいられる。

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