底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

そこに謎があるから考える

暇なのは間違いない

人生について考えるのが好き、なんて口に漏らすと「暇なのか?」と時々言われる。それは否定しないが単純に気になるんよ、と言っても中々伝わらない。確かに、人生それ自体が解けない謎であるのは分かりきっているのだから、考えるのをやめてただ生活を楽しめば?と言うのも分かる。その方が断然理にかなっているし、こんな底辺の頭で一生懸命考えたところで、謎の方はビクともしないこともはっきりしている。いやしかしそうは言っても、目の前にこうしてデカデカと存在しているのだ。それを見ない「ふり」したり、「わざわざ」考えないようにするのはしんどくないか?と私は思うのである。




考えちゃう

生活と同時進行で謎を考える。私の人生の常である。何をしている時間でもふっと思い出したように。今飲んでいるこのコーヒーの「美味しさ」はどこに存在しているのであろうか。靴紐を結ぶためにしゃがんだ。三秒前までは立っていたのに、今はしゃがんでいる。三秒前の立っていた私は今どこにいるのか。家に帰ってきた。家とはなぜ帰る場所なのか、私は何のために家を欲す。生活の節々から謎が滲みだし私を捕えては問いかけてくる。どこにも逃げられない。




自分的にはちょっと読んでみたい気もする

四十歳五十歳まで生きられるとして、その時の私から今を見渡したらどう思うのだろう。少なくとも今の私にとっては、考えることは人生における不変のテーマなのだが、もしかしたら「あの頃は頭がおかしかったわ」なんてあっさり切り捨てられたりして...。可能性はなくもない、なんせ受動的だからな。そうなっていたら、このブログは「底辺アラフォー女の一日」みたいな記事が並ぶのかしら。うーん、どこに需要があるんだろうか。




考えたらどうなるかまでは考えられない

何故考えるのか。そこに謎があるからだ。どこかの登山家みたいなセリフだけど、結局考える理由はそれしかない。考えない選択肢がないから考える。考えずにいられないから考える。頭の良しあしとか、無駄かどうかとか、そんなのを考慮に入れる余裕が全くない。考えてどうなる?何が得られる?以前に考えることから出られない。




ないです、すみませんでした…

こんなに考える考える連呼して、まるで自分はすごい考えている人みたいですね。ただその場その場の思いつきに流されているだけなのに、自分は考えている、なんて思い上がっているのでしょうか。考えることはそんな生易しいものではないだろう。考えるというのは、きちんした頭で緻密に正確に問い続け、あらゆる角度から答えを慎重に出すことなんですよ。やったことあるんですか、きちんとした頭あるんですか、あなた。

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