底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

純粋な人付き合いには時間と労力が必要(当たり前)

スタートはみんなこれ

出会いは大抵不純な動機から始まる。なぜなら、出会う以前に出会うことはできないからである。出会う以前にそのものに出会いたいと思うことは不可能であり、それ故に全ての出会いはそのもの自体ではなくそのものが持つ一つの属性を欲することから始まる。買い物などを想像してみると分かりやすい。抽象的な「こういう服が欲しい」があって、そこからお店でその条件に合う服を見つける。条件に合うからその服は買われるのであり、もし更に条件に合う別のものがあったなら、きっとその別のものが買われていたに違いない。




不純から純粋に変わるには時間と労力が必要

人の出会いもまた然り。人と出会う時も得てしてその人の持つ一つの属性と出会うことから始まる。かっこいい、可愛い、優しい、話が合う、笑いのツボが同じなどなど。そこから他の属性も知って関係を徐々に築いていき、友人や恋人或いは他の何かになることで、やっとその人の存在そのものが大切になっていく。属性を何個も何個も知っていった先にこそ、どうにか純粋な人付き合いは始まるのである。自分にとってある人が「〇〇だから大事」ではなく「無目的に存在自体が大事」に変わっていくにはそれ相応の時間と労力が必要なのだ。俗に「運命」と呼ばれているものの正体とは、つまりこの時間と労力をかけずとも、出会った瞬間からなぜか相手の存在を大切に思えるということなのだろう。




現実はやはり不思議である

他人の存在は属性の集合である点において車のようなものに似ている。車には実体がない。車とはどれのことですか?と聞かれて、指さすことは可能であるが、具体的にどの部分が車なのですか?と聞かれても答えることはできない。様々な部品の集まりこそが車だからである。自転車からトラックに至るまでの全てが車であるが、それは車輪で前に進むという共通点があるからだ。人に置き換えれば、つまりそれは身体があるということと同等である。残りの共通点の周りにあるものは全てその人の部品であり、その人自身の存在を表してはいない。我々はおおまかにある人を指さすことはできても、具体的に身体の一部をもってそれがその人であるということはできない。属性についてもこれと同じことが言える。どんな属性を持ってこようと、その人の存在とはイコールで結べない。だから論理的には、我々はある人の「存在」に辿りつくことは永遠に叶わない。どんなに属性を知っていこうとも、これが車だと指させるようなものは出てこないからだ。しかし現実では大変不思議なことなのだが、これがいとも簡単に為されている。その人自身と言える核のような部品に出会うことはありえないので、人付き合いは不純な動機であり続けるはずなのだが、いつの間にかその人の存在そのものが大切になってくる。なぜなのだろうか。分からないけれど、とても素敵なことですね。

f:id:kabiru8731:20220221014716j:plain