底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

正しさは語るものではなく示すものと語る記事

正しいことはただ語っても意味がない

「~すべきだ」という語尾は大抵虚しい。それが遠くに無人称に向かって語られている場合は尚虚しい。なぜなら、すべきだと既に思っている人はもうその通りに行動しているはずであり、すべきだと思わない人にはいくらすべきだと口を酸っぱくして語りかけたところで、それをしてくれるようにはならないからである。正しさを主張する言葉はいつもそう。それをただ語るのではダメなのだ。「語る」だけでなく「示す」ということまでセットでなければ、その言葉は誰の耳にも入ることなく、空虚に人々の横を通り抜けていくだけである。正しいは状態であって力ではない。ただ正しいだけ、ただ語るだけでは、およそなんの役にも立たないのである。




学問的正しさと世間的正しさ

正論と言われるような正しいことはこの世に無数にある。そのどれがより正しいのかは、個人の好き嫌いと、その正しさがどれだけ自分にとって有益であるかによって決まってくる。学問的な正しさの軸が事実であるのに対して、世間的な正しさは各々の快と不快が判断の中心である。電車で大声を出してはいけないのは、それを不快と感じる人が大勢いるからであり、お年寄りなどに席を譲るべきとされるのは、その行為自体に快を感じる人が多いからである。学問的な正しさは人によらない。誰が見ても、誰が検証しても同じになるから、それは正しいということになる。だが世間的な正しさはそうではない。それは実に人の数だけ存在している。同じでなくても、例え矛盾していようとも、どちらとも正しいということが往々にして起こり得る。自分の快不快を起点にしているから、どれだけそれが世間的に正しくても自分にとって不快であるなら、それは自分にとっては正しくないのである。だから、学問的正しさは正しさを発見し世間に語るまでがゴールであるのに対して、世間的な正しさが認められるためには、そこにプラスアルファで快を示さなければならない。




正しくとも分かってもうためには労力を費やす必要がある

会社などで「〜すべきだ」と上司が命じるような状況ならば関係ない。それは端的にそのような掟ということだから、従うことに理由はいらない。だが、社会に対してより大勢に対してそれを語る場合は、どれだけそれが正しかろうとも、立場的には茶々を入れているだけに過ぎない。正しいのに分かってくれない。当然である。正しいのにそれを分からないなんて馬鹿だ。いいえ、それは正しさを充分に示せていないだけだ。示す労力を費して分かってもらうか、そこまで頑張りたくないのなら、自分ひとりでひっそりその正しさに従って生きていけばいいのである。労力はかけたくないでも分かってもらいたい、はただのわがままだ。どれだけ正しくとも同じことである。

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