底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

相反する価値観は相容れない

価値観は相容れない

ある価値観を持つということは、その価値観と矛盾する或いは相反する価値観の人とは絶対に相容れないことを意味する。それがあるものを価値とすることの定義である。もし矛盾する或いは相反する価値観をも受け入れられるなら、それはそもそも、そのあるものが自分にとって価値ではなかったことになる。価値観と好みは大きく違う。好みは人それぞれで違うことが前提だから矛盾などは生じ得ないが、価値観とは何かを価値と思うということであり、つまりはあるものが他のものよりも勝っていると思うということであり、そこにはあるものを価値とする「正しさ」が入り込んでいるということなのだ。

 

 

正しいは誰にとっても正しい

正しいことは「誰にとっても」正しいのでなければならない。誰にとっても1+1は2であり、もし3と答える人がいたのなら、それはその人が「正しく」計算ができていないということになる。我々は3と答える人を誤りとする他なく、好みの問題としてその相違に正誤をつけないなんてことは端的にできない。だからこそ、何かを価値とするのなら、矛盾する或いは相反する価値観は認められない。それは必ずどちらかが正しく、どちらかが誤っている世界に突入せざるを得ないのである。

 

 

相手を相対化する

だが、これは相手の価値観を相対化することで一気に解決する。つまり「へ~あなたはそう思うんだ」と解釈することにより、相手の価値としているものは、ただ単にその人の個人的な思いへと成り下がる。相手がそう思っているだけで「本当は」違うとすることによって、私は戦わずして最初から勝っていることになるのだ。もちろん相手が同じことをすれば、私にも同様の結果が降りかかるのだけど。

 

 

受け入れられないけど別に支障はない

矛盾する或いは相反する価値観を受け入れることはできない。だがそれは別に一緒に生活できないとか、必ず争いになるとかということではない。なぜなら、人には正しいと思うことを表に出さない能力があるからだ。誰にも語ることなく自分の正しさを静かに追及することができるからだ。それに価値観は人のほんの一つの側面に過ぎない。その側面だけで人の全部を判断するのは無理がある。

 

 

私の価値観

致命的な価値観の相違は日常生活で、しばしば嫌悪や軽蔑などの感情を人に抱かせる。そのおかげで人は自然的に住み分けることができている。感情とは素晴らしいものだな。矛盾する或いは相反する価値観はそもそも受け入れられないし、受け入れようとする必要もないと思う。相手の正しさを受け入れようとするより、自分の正しいを突き詰めて追求する、そっちの方がより正しいのではないだろうか(私の価値観)。

f:id:kabiru8731:20211229021118j:image