底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

世界は白黒ではなくグラデーション

グラデーションな世の中

世の中のたいていは白か黒かという風にはなっていない。だいたいの物事はグラデーションのように、それも綺麗なグラデーションというわけではなく、所々色むらがあったり、所々色がうまくのらなかったりと、均一に濃くなったり薄くなったりしているのではない。誰かへの気持ち、物質的なものの壊れ方、子供から大人になる過程。もちろん一気に変わることもなくはない。だが多くは徐々に少しずつ変化していくものである。段々と誰かを好きになったり嫌いになっていったり、段々と何かが錆びて壊れていったり、段々と時間と共に心が成長してく。時間に関わるもの以外もそうである。テストの点数は何点からが良くて、それ以下は悪いときちんと決まっているのではないし、買い物もいくらからが高くていくらからが安いという風な明確な基準はどこにもない。そこには常になんとなくの感覚が漂っているだけである。




人間はグラデーションを白黒をに分けてきた

しかし、それだと困ることが結構ある。例えば責任問題。大人としての責務を背負うのはいつからか、どうしてもはっきり決めなくてはいけない。十九年三六四日と二十年ぴったりとではほんの一日しか変わらないけれども、そこに境目を設けて、片方を白と片方を黒とする必要が生まれる。あるものが壊れるということも、どこまでが制作側の責任で、どこからが使用者の負うべき責任なのかといったことを決めるために、壊れるの定義をつめなければならない。本来白か黒かのようにはなっていないものを、言わば無理やりに区分けすることで、人は世界を整理してきたのである。




はっきりとしていないのが普通

この「本来はそうなっていない」という認識は極めて重要であるように思う。多くの物事はただそう「決められている」だけであり、そう「なっている」のではないと知ることは、自分を混沌へと連れ戻してくれる。世界は本当は不可分で不明瞭で不可思議であるということを思い出すことができる。それはつまり「自分」でさえグラデーションなのだと心得ることなのだ。生まれた時、人は徐々に「自分」になっていった。年老いて死んでいく時、人は徐々に「自分」でなくなっていく。濃い色が続くとどうしても、薄い部分を忘れがちになるが、自分なんてものは元々その程度の存在なのだ。自分を軽視しろと言いたいのではない。ただあまり真剣に自分のあれやこれやに白黒つけようとするのは無益だと思う。自分の気持ち、思いや考え、どんな人間であるのかなんてことは、はっきりとは分からないし、分けられるようにもできていないのである。

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