底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

他人を変えることに正義はない

他人は変えられない

他人を変えることは得てして困難である。個人的には二つしか方法がないと考える。それもどちらも酷く確実さを欠いた方法である。一つは直接他人にお願いをすること、もう一つは自分が変わることによって、相手にも変わってもらうと期待することである。どちらともほとんどはうまくいかない。前者は一時的なら有効性はあるかもしれないが、長期で見るとやはり他人にそれを聞く義理はないので、段々と元に戻っていってしまう。後者はもう変わってくれれば奇跡のようなもので、大抵は誰も関心がないので、自分が変化したことにさえ気づいては貰えないだろう。

 

 

他人を変えようとするのは傲慢

他人を変えようとすることは一種の傲慢である。他人は自分のために存在しているわけではないのだから、相手からしたら当然、何故あなたのために変わらなければならないのかという疑問が湧いてくる。それに他人が納得できるような答えを用意しないで、人をどうこうしようなんて、傲慢以外の何ものでもないだろう。他人には他人の人生があるのだから、それを変えようとすることはそれなりの責任が伴う大きな問題なのである。

 

 

他人を変えようとする動機はだいたいこれ

他人を変えようとする動機にはどんなものがあるだろうか。仕事の場合を除いては、気に食わない。ほとんどがこれなのではないかと想像する。その人のためだ!なんて言葉を耳にすることもあるが、小さな子供でもない限り、その人のためになるかどうかはその人自身が決めることであろう。もちろん愛のある押し付けもあるにはあるが、向こうにそれを受け取る準備がないのなら、結局は単なるお節介で、自分が気になるから変えたいの範疇に収まるのである。他人は変えるものではない。そう考える方が随分楽である。他人が他人のままで存在している、それだけで十分であろう。もし十分に思えなくても、そう思えない自分自身を変えた方が遥かに早い。

 

 

他人を変えることに正義はない

自分のどうしても耐えられないことを、他人に変わってもらう以外で解決できない時、その最終手段として他人に変わってもらうようお願いをする。他人との距離感はこのくらいがベストなのではないだろうか。それで変わってくれたらラッキー、変わってくれなかったら腹を括って自分が環境を変える。他人が変わらなくても、何かをそのせいにしてはいけない。他人にとっては変わらないでいる方が当たり前なのだから。他人を変えることに「正義」はない。自分が正義で、他人が間違っているから正してやろうなんてのは、思い上がりもいいところである。他人の人生は他人のもの、自分の人生は自分のもの。変えたいのなら、端的に自分の人生を変えればいい。

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