底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

人生とは一面で甘えを正当化していくことである

私は自分に甘い

私はとても弱いと思う。自分の身を決して自分で守る事ができないという身体的なところから、少しの恐怖や強制からでもすぐに逃げ出したいと思う精神的なところまで、強いと言えるのはその逃げ足の速さくらいである。ちなみに身体的にはとても足が遅いです。五十メートル走は十秒くらいかかります。この弱さを私はちゃんと自覚している。だから自分に厳しくしたりしない、とことん甘やかす。何事においても甘やかして甘やかして、いずれ罪悪感が芽生えて勝手にやり出すのを期待している。そのまま最後までやり出さなかった時でもそれはそれで仕方ないよねと割り切る。やれよ!とか、できないお前は最低だとか、そういうのは絶対に言わない。言っても私の場合何も改善しないからだ。あぁどうせ私は最低だよとすぐに不貞腐れるのが目に見えている。




甘えで甘やかしているのではない

でもその自分に甘い部分をもし誰かに、「あなた自分に甘いよね」と言われたら、きっと私はそれを認めることができない。なぜなら、私にはそれしか生きる術がないのであって、甘えで甘やかしているつもりはないからだ。言い訳のようでみっともないけれども、自分に厳しくすることができない、厳しくしても何の効果もないからこそ甘やかしているのである。それは私にとって生きていくための、自分に何かをやらせるための、たった一つの手段なのだ。




皆あるよね...?

誰にでもそのような甘えの部分があると私は思っている。人それぞれ持っている部分は違うけれども、誰かに正面から詰められるとどうしても素直に認められない、どうしても触れてほしくないと思う。正しさから言えば決して正しくはないと分かっているのだけど、それでもそういう風にしか存在できないのだと諦めているために、もう掘り起こさないで放っておいてほしいもの。そういうものは誰にでも心当たりがあるのではないだろうか。え、私だけですか。




変えられない部分は包み込むしかない

その甘えをどう正当化していくか。私が人生において日々考えていることの一つである。後悔しない一生を送るために必要不可欠なのだ。自分を変える術を私は持っていないから、物事に対する意味づけの方を変えていくしかない。でもどうすれば、現状はそういうところで立ち止まっている。正当化とは所詮正当化なので、どれだけ正当化したところで、そのもの自体が正しくなることはない。それでもしないよりはマシだと私は思う。そこに自分なりの理屈を付けることは、他人から見たらただの屁理屈でも、自分にとっては精神安定剤になったりする。だって変えられないものは変えられない。それならその変えられないものを、どうにかこうにか包み込んで、現実との折り合いをつけながらやっていくしかないじゃないか。

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