底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

人間の愛と神の愛

1

人間ひとりの愛はすごく脆いのだと思う。何かしらの抵抗を少しでも感じると、それだけでバラバラと崩れ落ちていってしまう。臆病だと言い換えてもいいかもしれない。何かと愛する対象に対して、慎重になりがちなのである。愛はそれだけ人にとって貴重であるから、とにかく自分の最も重要だと思うものにしか注ぎたくないのだ。だから、少しの違和感も飲み込めないし、少しの不義理も許せない。そんなのちっとも愛じゃないじゃないと言われてしまうかもしれないが、人は神みたいに強くはないから致し方ない。丹念に対象を選別しないと、愛を注ぐ主体であるはずの自分自身が、先に崩壊してしまう。

 

 

2

注ぐ方が慎重にならざるを得ないので、受け取る方もそれが愛なのかと疑心暗鬼にならざるを得ない。少しの違和感で、少しの不義理で、もしかしたら愛でないのかもしれないと疑念を抱くことになる。その意味で、愛は人の身に余る代物なのだと思う。注ぐ方も受け取る方も精力をふんだんに使わないと、それを上手く扱えない。ここでの精力とは信じる力のことだ。注ぐ方はちゃんと愛を受け取ってくれると信じること、受け取る方はそれはしっかり愛なのだと信じること。その両方が成されて初めて愛はその間を行き渡る。

 

 

3

しかし究極の意味において自己満足でしか生きられない人間にとって愛は、受け取る側次第なのだと言ってもいいかもしれない。その意味で注ぐ側はいつも自己満足に耽っているだけである。それを愛と解釈するかどうかは受け取る側の、やはりは信じる心に委ねられる。ここでの信じるは相手を信じるの意味ももちろんあるけれど、一番は自分を愛を受け取るに足る存在だと信じているかどうかだ。もしそこが信じられていないのなら、他人のどんな行為にもおよそ愛を読み取るのは不可能だろう。

 

 

4

人間の愛は神から貰うものだ。というとなんだかすごく怪しい宗教感があるがそういう話ではない。人間は自分で自分を生み出したのでないから、被創造者である側面がある。その意味で、世間的には親が自分を創ったということになっているが、その親だって被創造者の一人に過ぎないのだから、根本はもっともっと辿らねばならない。そうして、辿っていった先には必ず神がいるというだけである。神以外の概念で、世界が今こうしてあることを説明できるわけはない。偶然とかたまたまを持ち出しても同じだ。そこには、サイコロを振る存在が依然必要なのだから。私達はみんな創られたのだ。それだけで誰しもが愛を受け取るに相応しいのではないかな。というかその時点で既に受け取っているのではないか。

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