底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

やはり人生は自分がどうしたいか

自分の考えが変わってきた

私は自分が死ぬことを知っている、だから〜しなければならない。今までずっとそんな風に自分に何かを課して死ぬことに備えなくてはいけないとあれこれ考えてきたのだけど、最近そこに少し変化が訪れた。確かに知っているが知っているというそれだけではないか、と思うようになったのだ。死から人生を逆算し今の自分を決定する。それは大変に無謀なことであった。だって生きている限り死はどこにもない。死はまさに無なのであるから、それが今ここに「ある」自分に何かしらの強制力を働かせられるわけなどなかったのである。私には最初からただ生きることしか許されてはいなかったのだ。




どうせ死ななくても同じ

「どうせ死ぬ」ということからは如何なる人生の導きも出て来はしない。どうせ死ぬから楽しく生きよう。どうせ死ぬから全てが虚しい。どうせ死ぬから自分のためになることをしよう。どうせ死ぬから人生を無駄にしてしまおう。全部正解である。どうせ死ぬという枕詞はもはやそこに何の意味も成していない。死がなくとも楽しく生きようとする人は楽しく生きようとするであろう。全てが虚しい人は虚しいままであろう。自分のためになることをしようと人は依然するであろう。人生を無駄にしたい人は変わらずそうするであろう。無であるところの死には各人の人生に対する態度を決めさせる力などないのである。




自由だ!

では何が決めているのか。言わずもがなそれは今ここに生きている自分である。自分がどう生きたいか、人生への態度は結局今の自分の願望を反映したものに他ならない。人生の方はただあるだけで如何なる生き方の要請もこちらにはしてこないのである。自分がどうしたいか、全てがそこに係っている。この自由から逃げてはいけないのだ。逃げられるものでもないのだ。




余白としての自分

ここまで何かを書いたようで、実は何も書いていない。なぜなら問はまた、じゃあどうしたらいい?に循環して帰ってきたからである。私には望む生き方など何もないのだ。望まない生き方はそれなりにあれど、この生き方がいい!と強く思うようなものはない。だから結局何を指針に人生を進めていけばいいのか皆目見当がつかない。望まない生き方を避けつつ毎日を考えながら生きていく。やはりそんな大雑把な輪郭しか持てないのだろうか。うーんそんな気がする。目の前にあること一つ一つに対してやりたいかやりたくないかの二択で判断し、やりたくないを避けに避けて、やりたいをその余白として見つけていく。生まれながらにやりたいを持っていない人は、きっとそうして少しずつ自分を見つけていく他方法はないのだろう。




やりたいがある人とない人の違いについてはこちら

shikouzakki.hatenablog.com