底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

後悔は未来に活かすくらいしか使い道がない

選択の自由があったから後悔するのではなく、後悔するから選択の自由があったと思うのでは?

これをしておけばよかった。あれをしなければよかった。後悔とは即ち「別の選択をすることもできたのにしなかった」という思いなのだろう。しかし、どうして「別の選択をすることもできた」と思えるのか、その根拠をよくよく考えてみるに、何も思いつくことはできない。ただ無条件で確信的に「そうすることもできた」と思っている自分がここにいるだけである。もしかすると事態は逆なのかもしれない。つまり、「実際」そうすることもできたから、そうすることもできたのだと「思っている」のではなく、そうすることもできたと「思いたい」から、「実際」そうすることもできたのだと自己暗示をかけているのではないか。




選べないやん

別の選択をすることもできた、そう思うのは自分には自由があったのだと信じているからである。あれもこれも選べたけれど、これを選んで失敗した。別のを選んでいればきっとはこうはならなかった、これよりよい結果になった。そう思うからこそ人は後悔をする。だが、本当に別の選択を選ぶ自由が自分にあったのかどうか結構疑わしいのではないか。だって、端的にそれを選ぶ自由があったのならどうしてその時に選ばなかったのだろう。その時は結果を知らなかったから選べなかったというなら、結局は選べないということではないか。




後悔はなんの為にあるのか

そもそも、いくら後悔したところで過去には戻れはしないのに、それでも人間に後悔という機能があるのはなぜなのか。後悔があることで何かを変えられるのだとすれば、それは未来しかないのではないだろうか。つまり「同じことを繰り返さない」ためにこそ後悔がある。もし今までの人生の全てが思い通りであったなら、人に後悔は生まれなかっただろう。思い通りにいかなかったことが沢山ある、それらを運の一文字で片付けてたまるか、同じことを繰り返してなるものか。後悔とはそういう人間のハングリー精神から来ているのかもしれない。




後悔は貴重な経験

実際の後悔の出処がどこなのかは分からないけれど、後悔に意味を持たせたくば未来のために役立たせるしかないというのは本当であろう。過去は文字通りもう過ぎ去った。どんなに後悔したところでその時には決して戻れない。それでもその後悔を抱きしめたまま死にたいというのなら、それもまた一つの生き方ではあるが、「せっかく」抱いた後悔を未来に活かさないのはやはり少し惜しいと思う。後悔を自らに望んで抱くことはできない。抱きたくないことであるのが後悔の前提であるからだ。抱きたくても抱けない、抱きたくないのに抱いてしまう。不運ではなく自分の過ちだったのだと「なぜか」思える。そう自分を改められるチャンスは、自分の手では創り出すことができないのである。