底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

意見の内容にだけ注目したい

内容が大事

何かを正しいと主張することと、何かを正しいと主張する故に自分は正しい、ということとは別である。別であるはずだ。別ですよね...?別であるはずなのに、前者を見たことがほとんどないので、なんだか後者しかいないような気がしてくる。自分も思いっきり後者なので、前者の存在がますます信じられない。でもいるはずなのだ。ありえるはずなのだ。自分などそっちのけで純粋に物事の正しさについて綿密に語れる人が、自分など捨て置いて事態の真実について冷静に話せる人が。少なくとも、誰しも他人をそうであると「見る」ことはできるだろう。自分の感情を下ろし、相手の自己正当化の鎧をも透かして、その人の意見の内容だけに注目することは可能であるはずだし、本来そうするべきなのではないだろうか。




大抵のことは自分の頭で考えるのが一番いい

相手がどんな目的でどんな動機でそれを正しいと主張していようが、結局正しいことは正しいし正しくないことは正しくない。純真無垢な思いで語っていたらどんなことも正しくなるというわけではないし、自己正当化のために語っているからといって、その事が正しくないとは限らない。大事なのはやはりその内容である。何が正しくて何が正しくないのかは、相手の周辺情報からは判断できない。結局は自分の頭でよく考えてみる他ないのである。




主張の内容以外をノイズとして捉える

主張する側である時も、何か反論をされたらその反論内容だけを見て、相手の目的や立場や態度はただのノイズとして捉える。これが理想である。ポジショントークだ、そんな立場だから言えるんだ、態度が悪いからまともな反論じゃない。そういう判断は感情に重きを置きすぎで、肝心な反論内容を見逃すことになる。もったいないと個人的には思う。目的がなく自分と似た立場で態度のよい人が自分の意見に出会い、尚且つ反論までしてくれる可能性は奇跡レベルなのではないかと感じるからである。




目的や立場や態度を指摘すれば不毛に終わってしまう

主張していることが正しいからといって、自分が正しい人間になるわけではない。これ頭では分かっているのだが、心を追いつかせるのはとても難しい。どうしても「私正しいこと知ってるんだぜドヤァ」みたいな自分が住み着いてしまう。私だけである可能性は否めないが、主張する側がその主張から自分の目的や立場や態度を切り離すのは限界があるように思う。どれだけ切り離しても、結局は「私が」主張しているのだし、もし見る側がそのように見たいのなら、いくらでもそう見えてしまう。そんなことを主張するのは自分を守ったり自分を正しいと思いたいだけでしょ?なんて言われてしまえば、いくら違うと反論したところで、話は不毛に終わるだけである。

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