底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

興味あることとアウトプットの差について

差異が生まれるのはなぜ

私は人生論というものにはさらさら興味がない。生き方なんてどうでもいい。ただ自分の考えたいことを考えているのが楽しい、とにかく毎日それさえできればいいと思っている...はずなのだが、どうしてか、アウトプットになると人生論的な内容に偏ったものが多くなっている。このブログの半分以上の記事で人生論について語ってきたような気がする。どんな記事でも自分的には一向に構わないのでそれ自体はどうでもいいのだが、この差異がとても面白いなと思った。なぜ興味関心とアウトプットの間にこうも差ができるのか、私の仮説は人は自分がどうでもいいと思っていることしかうまくアウトプットできない、である。




現に楽しいと思っていることはうまく書けない

今自分が興味関心あること、それには得てして楽しみがついて回る。つまりはまだまだ未知のものがあって、自分は知っていく途中にあるから、常に楽しく感じられる。だからこそ、それはアウトプットには向いていない。知らないことが多いので、結論は暫定的なものとなり、記事にするのが憚られる。それに楽しんでいる最中のものから何かを取り出す作業を行うのも、そもそも酷く難しい。楽しいのは分かるが何が楽しくさせているのか、具体的に述べられるのなら、たぶんもう一歩引いた目線に立ってしまっているのである。




現に正しいと思っていることもうまく書けない

自分が正しいと思っているものを書く場合も同じで、それを正しいと思えば思うほど、アウトプットは難しくなっていく。なぜなら何かを正しく思っている場合は、「ともあれ」正しいのだと自分は思っているからである。なぜ正しいのかがうまく言えない、ただそうとしか思えないために、それを正しくないと思っている人の視点に立って説明することができないのだ。もし反対の立場に立ったりなどして、それについて様々な角度で吟味できるのなら、もうその頃にはそれは一つの思考問題であって、今すぐ正しさを主張しなければならない切実なものではなくなっているのである。




生き方なんてどうでもいいなという生き方が大事ですよ!!?!

つまりは自分の中でほぼほぼ結論が出されていて全く熱意を持てないものしか、人はうまく外に出せないのだと思う。私にとって人生論とはその位置にあるということなのだろう。生き方なんてどうでもいいと思っているからこそ、それを沢山扱ってしまう。本当に生き方なんてのはどうでもいいことだ。どんな生き方をしたって何がどうなるということはないのだから。仮に何かがどうなったところで自分は必ず死んでしまうのだから、好きに生きればいいのである。というかそもそも残酷なまでに人は自分の好きなようにしか生きられないのである。