底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

快不快と善悪について

ちゃらんぽらんって語感好き

自分の行動基準を振り返ってみる。自分は何で動く人間なのか改めて考えてみると、ほとんどが「より不快が少ない方」であるような気がする。信念や理想なんてもの持ち合わせていないので、自ずと今の自分の快適さが全てになってしまったのだろう。ずっと人生後悔したくないと言ってきたのも、きっと後悔という不快を避けたいだけである。こうして書くとなんだか自分がひどくいい加減でちゃらんぽらんな人間に思えてくるな。まぁ実際そうか。




快不快で動いてない人おるんか

自分の快不快で動く。そう書くとどうしても聞こえがよくない感じがする。善悪のようなものを途端に想定してしまうからかもしれない。自分が快と思うのなら悪にも手を染めるのか?自分が不快に思うなら善を行わないのか?いやいやそれはダメだろという直感の元に嫌悪感を抱いてしまう。確かに人であるなら己の快不快の上位に善悪などの正しさをその行動の基準に置くべきだ、という意見は至極真っ当である。問題はそれは現実で実行する難易度が果たしなく高いことだ。実際、今の社会は多くの人の快不快と普遍的善悪が「たまたま」ほとんど一致しているから犯罪が少ないだけであろう。殺人や強盗を快に思う人、自分に余裕があるのに人助けを酷く不快に思う人、そういう人は滅多にいない。多くは「最初から自動的に」善人なのである。誰もいちいち自分の快不快と善悪を照らし合わせて行動してなどいないのだ。




快不快と善悪の関係

仮にこの世に完璧で絶対的な善悪があるとしよう。そして、自分の快とその善が、自分の不快とその悪がピッタリ合致している人がいたとして、その人が自分の快をひたらすらに追い求めることを善行と呼ぶことはできるだろうか。一般的に、道端のゴミを拾ったり、財布を交番に届けたり、募金活動をしたり、そういうものを我々は善と呼ぶ。それは「人の役にはたつが普通はそうしたくならない」という前提があるからだ。そうしたくない不快を乗り越えてやっている「ように見える」からこそ、それらの行為は価値あるものとして賞賛されている。だから、もし全ての善行を己の快としてこなせるようなら、皮肉にもその人を善人と呼ぶことはできないのである。




どの口が言うてんの

しかし、そういう善人とは呼べない善人は社会にとってみれば、居るに越したことは無い。居れば居るだけよいはずである。善を己の快として進んで行ってくれるのだから、こんなに都合のいい存在は無い。まぁでも現実問題、自分の快不快と善悪が完璧に合致していることはありえないし、絶対的善悪も存在しているかどうか分からないので、つまらない結論ではあるが、やはり個人個人が一つ一つの行動に対してきちんと考えた方がいいというのが実際のところなのだろうな。

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