底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

絶望と希望は紙一重

二種類の絶望

絶望には二種類あるのだと思う。どうにかできる絶望とどうにもならない絶望である。本当は前者は絶望とは呼べないのかもしれないが、何しろ人はそこまで正確な生き物ではないので、本来どうにかできるはずの絶望をどうにもできないと感じとってしまうこともある。というより、ほとんど全てがそうである。例えば、行列に並んでいたのに自分の寸前で売り切れた時、人は瞬間的に絶望する。だがそんなのはまた次の日にでも並べばいいだけの話であろう。それに仮にそうでなくとも時間が経てばその絶望の感じは必ず比例して薄れていくし、忘れ去られていくものだ。どうにもならないと言う程のものでは全然ないのである。

shikouzakki.hatenablog.com

 

 

認識に基づいて絶望する

絶望だと感じていても全く絶望的ではないということがこの世にはたくさんある。それを自覚できないのは、自分の感覚に重きを置きすぎてしまうからだ。感じとった世界が全てではない、人は往々にして感知を誤る生き物である。絶望の淵にいる時それを思い出すのは難しいかもしれない。でも厳しいけれども事実としてはやはりそうなのだ。人はそれを知っていかなければならないのではないか、感知ではなく認識に基づいた正しい絶望をすべきなのだと個人的には思うのである。

 

 

現実のクソゲーたる所以

この世で絶対にどうにもならないもの、それは二つだけである。自分は死ぬまで自分であり続けることと、自分は死ぬのだという二つである。この二つに対し骨の髄まで絶望した時、もはや他の如何なることにも絶望することは起こりえない。なぜなら、この二つを置いた他の一切のことには嫌にでもどうにかなる可能性は残されていると知るからだ。例えそれが0.0000000001%であっても、ゼロでないのなら同じことである。僅かな希望が残されている限り、それに縋らないのは、自身の選択による諦めであって絶望ではないとどこまでも自覚してしまうのである。

shikouzakki.hatenablog.com

 

 

絶望と希望が入れ替わる時

自分は死ぬまで自分であり続けることと自分は死ぬのだということ。もしその二つに正しく絶望したのなら、人の考えることはもはや、自分はどのようにして生きていくべきかだけではないだろうか。外的なものなどとは無関係に、自分自身固有の態度を人生に、世界に見出そうとしていくはずである。なぜなら、それ以外の一切は究極的にはただの運に過ぎないのだという見方がそこに生まれるからだ。どれだけ希望を持っても叶わないものは叶わないし、どれだけ絶望しても救われる時は救われてしまう。つまりは、その不確定さこそが本当のどうにもならない絶望であり、自分は死ぬまで自分であり続けることと自分は死ぬのだということの確実さこそが人生を切り開いていける真の希望なのだと、そこにおいて事態は逆転するのである。

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