底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

感じることに理由はなくとも原因はある

感じることに理由はなくとも原因はある

感じることに理由はない。美味しいと感じるものになぜ美味しいのかと聞かれても、美味しいからとしか言いようがない。食感がどうたら味わいがどうたらと並べてみても同じである。で、どうしてそれが美味しいの?と相手は更に聞き返すことができるからだ。しかし、そう感じる理由はなくとも、そう感じる原因は往々にしてある。そのように感じることを意図的に選んではいなくとも、そう感じさせる観念を人は多くの場合に持っているということである。例えばとっても美味しいと思って食べていた料理に、実は自分の嫌いなものが入っていたと知るとちょっと気持ちが冷めてくる。知る前と味は変わらないのだが、頭が「嫌いなものが入っている」という観念に囚われてしまい、箸のスピードがすっかり落ちていく。




観念は変えられる

観念が感じをもたらす。音楽などがその最たる例である。音や歌詞によって自分の中にある観念が呼び起こされ、それに浸ることで人は音楽に感動する。感じは意志によっては変えられない。「そう感じろ」という命令形は虚しく散るだけである。なら観念の方はどうだろうか。こちらもそこそこ受動的ではあるが、感じのように丸々コントロールできないというわけではなさそうだ。これはただの自分の観念だ、と自覚してみるだけでも結構変わってくるだろう。さっきの例で言えば、食べても分からなかったのだから、嫌いなものが入っていることを観念にして、知る前までは美味しく食べられていた事実の方に目を向けてあげれば、それだけでその料理に対する態度はまた一変するはずである。




感じの意味は変えられる

逆に言えば、感じから原因を探って観念に辿り着けば、その感じも変えられるということなのではないか。そう感じるなは無理であるが、そう感じた自分をよく観察し、囚われている部分を探し当て、そこに別の意味を上書きで載せれば、美味しいまずいは変えられなくても、それに対する快不快の感覚は剥がしていけるはずである。不快に感じているものを自分の考え方一つで変えられる、そう簡単に一言でまとめてしまうとなんだか嘘くさいが、限度はあるにしろ仕組み的にはやはりそうできている。




対処法の一つとして

どう感じるかは選べない。しかし感じたそれにどう意味付けし、次同じように感じた時にはどんな態度でどう対処するかは、考えることができるし、ある程度は選ぶこともできる。その自由を享受する権利はいつだって自分に与えられているのだ。せっかくあるのだから、存分に活用した方がきっと人生は得である。不快への対処法は多いに越したことはないのだから。

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