底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

下手くそ自体は恥ずかしいことではない

七年間歌声を封印しています

上手にできないのにあることをする、それを私はとても恥ずかしいと思ってしまう。音痴を理由に歌うことはもうかれこれ七年くらいはしていない。その前にはよく曲を口ずさむこともあったので、歌うこと自体はたぶんそれなりに好きだったのだ。ただ音痴と気づいてからは、歌うことがすっかり楽しくなくなってしまい、その歌声をもう聞きたくないという思いで、ある時からカラオケではもちろんのこと、鼻歌レベルの軽いものさえ全く歌わなくなったのである。

 

 

なぜだろう

下手であることは恥ずかしい。よくよく考えるとなぜそう思っているのか、理由は分からない。理屈から言えば、よほどの天才でもない限り、下手くそなんて誰しもが最初に通る道であるのだから、恥ずべき理由なんてどこにもないはずだろう。

 

 

聞く側はどうか

聞く側の立場から考えてみよう。聞く側にとってみれば、きっと上手であることに越したことはない。上手な歌は心から享受できるものだが、下手くそは茶番として面白おかしく聞くか、耐え忍んで聞くかの二択になってしまう。少なくとも上手な歌を聞くのと同じように、その歌声にうっとりして感動するというようなことは大変に起こりにくい。下手くそであることは茶番に昇華されない限り、聞き手側にはメリットがなく、時には少しばかりの不快感さえ与えてしまうのである。

 

 

二つは全然違う

下手くそであることが悪いのではないのだ。下手くそであることを他人に恥ずかしげなく開き直って見せることが少々悪いだけである。下手くそであること自体は決して恥ずかしいことではないが、それを他人に堂々と悪びれもせず公開していることは、端的に恥ずかしい。この二つを区別するのは極めて重要である。でなければ、下手くそである全てのことに最初の一歩を踏み出せず、簡単に諦めてしまう羽目になる。

 

 

下手でも人前でやりたい時は気持ちを頑張って伝える

成果を出すのが必須でないようなことなら、気持ちを伝えるのが一番大切である。下手くそでも一所懸命さが感じられるものなら、人は心を打たれる可能性がある。下手くそであるとその気持ちはどうしても伝わるのが難しくなってくるが、下手であることを自覚し、下手であることをきちんと相手に前置きしておくのなら、そのハードルはグッと下がるはずである。

shikouzakki.hatenablog.com

 

 

また歌いたい

最近になって、また歌いたいと思うようになったのだ。元々の音痴プラス七年間全く歌っていないブランク(?)があるために、聞くに耐えないものである可能性は非常に大きいが、それでもこのまま一生歌わない人生を送るのは嫌なのだ。大丈夫。下手くそ自体は恥ずかしいことではない。他人の耳には入らないところでひっそり歌えばそれでいいのだから…。

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