底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

人類って凄いなという話

人類ってすごい

機会があってほぼ東京を横断する形でその間の高速道路を走った。私は都会の景色が大好きである。都会の景色の良さはなんと言っても「人類」の営みと息遣いが感じられるところにある。数々のビルや道路やその他私の目に飛び込んでくる空以外の全てが人の手によって創られたものであると思いを巡らせる時、私は酷く感動を覚える。これ全部全部人が創ったんだぜ。信じられるか。私にはとても信じられない。壮大すぎてもう何が何だか。人類の知恵や技術や労力の結晶はかくも偉大なのだなぁ。同じ人類のひとりであるはずの私には完成したそれらをボーッと眺めるくらいしかできないや。

 

 

ちっぽけだな

自分は人類のひとりだ。そう強く感じられるのも都会ならではである。ただ静かにひとりでいる時には私は自分であり、親しい人例えば友人といる時には私は誰々の友人として存在することになる。人間というアイデンティティは意外にも生活のほとんどで顔を出していない。でも都会にいるとどこにも溢れんばかりの人がいるので、それが嫌にでも強く自分に跳ね返ってくる。いい意味でも悪い意味でも自分の存在がとてもちっぽけに思えるのだ。自分もただその中の一員としてあるのだということの安心感、自分ひとりが消えたところで世界は何一つ変わらないのだということの空虚感が同時に押し寄せてくるのである。

 

 

いらないと思いますけど骨置いときますね

人類の凄さを時々忘れてしまう。今の自分の生活を支えているほとんど全てのものは先人達の残した結晶と現在に生きている誰かの手によるものなのだ。それはとても凄いことなのではないか。だって人類のために自分が残せるものは何かと考えた時、私には何も思いつくことができない。自分は日々人類の叡智をこれでもかと使いそれらに強く依存しながら生きているにも関わらず、人類のひとりであるところの自分はきっと骨くらいしかこの世に残せるものがないのである。

 

 

みんなが凄い

でも、失礼かもしれないが実はみんなそうなのだと思っている。誰も人類の為に何かを残す意識でなど生きていない。でもだからこそ、その集まりが結果的に人類というとんでもない凄いものになるのではないか。皆自分の人生を必死に生きているだけであるが、その事がまさに人類そのものへの貢献であろう。あのビルが建ったのも、あの道路が敷かれたのも、あの橋が架けられたのも、きっと誰かが少しずつ自分にできることを行ってきただけの結果に過ぎない。しかしその少しのことが膨大に合わさり幾度となく繰り返され歴史が何層にも積み重なることで、人類は地の全てを埋めつくすことに成功したのであろう。

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