底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

たぶん私は永遠に厨二病を卒業できない

はいざまぁ

はい残念でしたーー今日も雨でーすと言わんばかりの雨が降っている。クソ昨日言ったことがフラグになるとは。ずぶ濡れで仕事にいかないといけないって何の試練なんだ。傘を職場に置き忘れた私が悪いけれども、さすがにこの雨の量は運が悪すぎる。。。

 

 

誰かひとりでも楽しんでくれたら幸甚の至り

このブログはなんとなく毎日1000文字を目標にしている。毎日にも1000文字にも特に深い理由はない、ただ一日でも空けると自分の性格上だるくなって書かなくなりそうだし、1000文字以上書かないのは単に書く精神力と文章構成能力がないだけである。書くことも特に決まっていないのだが、唯一の縛りは自分の考えや疑問を必ず織り交ぜることである。ただの日記にならないように、ネットに公開する以上はひとりよがりな内容にしないで、私以外の誰かも一緒に楽しませられるようなことを書きたいのだ。その力量にはあまり自信はないが、少なくとも志は常にここに向かっている。

 

 

今日は才能のお話

人間を二種類に分けるなら〜という話は人生で誰しも一度は言ったり聞いたことがあるのではないか。他の人はどんなことで分けているのだろうか?私なら確実に「才能がある人」と「才能がない人」である。

 

 

才能はそれだけじゃない

ここでいう才能は、世間的に言われている才能の意味ではない。スポーツで人々があっと驚くような新記録を出せることではないし、有名アーティストのように世にウケる芸術作品をつくれることでもない。多くの人を笑いや感動の渦に巻き込めることでもないし、ビジネスで大稼ぎしてお金持ちになれることでもない。世界の新事実を発見したり、新しい技術をつくりあげ人々の生活に大きく貢献できることでもない。もちろんこれらが才能であるという事を否定する気はさらさらない。社会や人類に貢献できたり、新しい何かを発見したり創造できることは立派なことだ。ここに疑いの余地はない。ただ私がここで言いたい才能とは意味が違うというだけである。

 

 

才能≒使命

私がいいたい才能は使命(或いは呪い)のようなものに近い。他の人はそれをしないでも生きていけるのに、自分はそれをせずには生きられない、それをしないで生きることがまるで想像できない、しない選択肢が最初から与えられていないようなものを私は才能と呼びたい。なぜならそれがある人生とは即ち、最初から!自分が決めるのではなく!生きる意味が与えられているということだからである。

 

 

内容と技術は無関係

それの内容はなんでもよい。スポーツでも芸術でも芸能でもビジネスでも学問でも研究でも、日常的な趣味レベルのものでさえよい。そしてもちろんそれの熟練度や技術の高さなども関係がない。ヘッタクソでもなんでも、それをせずにはいられないと言えることこそがここで言いたい才能の意だからである。

 

 

才能と自由

才能は人々の人生を、意味が最初から与えられた生と、何も持たずに生まれた生の二つに分ける。もちろんこれはどちらが優れているかという話ではない。前者は生まれながらに使命があるので迷わず生きていけるが、その代わりに選択の自由がない。後者はそのような使命がないから迷ったり人生の意味を見失うことはあるが、その代わりに自由に選んで生きられる。ただ厨二病気質が抜けない私には前者がかっこよく見えて仕方ない。自分にしかない使命を持って生まれたとか、かっこいい以外の言葉が見つからない。

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