底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

正しさの正しい扱い方とは何か

正しさの正しい扱い方とは何か

ここに一つの正しいことがある。内容はともあれとにかく正しいのだということが一つある。さてこの場合、その正しいことを一体どう扱うのが正しいのだろうか。自分ひとりでそれに従って生きる?他人にもそれを広める?正しいことは正しいのだからいずれ勝手に皆吸い寄せられると考えて何もしない?うーん正直分からない。正しいことに面した時の正しい態度は一体何を基準にどう決めたらいいのか。それは何が正しいことなのかと正しさの内容を問うよりもずっと意味のある問であるように私には思われる。だってどんな正しさがあるのだとしても、そこが決まらないことには人は正しく生きられない。どんなに正しいことを知っていても、扱い方が正しくなければ全てが台無しなのである。

 

 

叶え方を知らなければならない

誰にでも自分の思う正しいことがある。何かを正しいと思うということには「その事が普遍的で誰にでも当てはまらなければならない」の意味が必ず含まれている、それが正しいの言葉の定義である。でなければそれはただの個人の趣味嗜好だ。問題はじゃあ実際にそこに向かうには何が一番の有効的な手段なのか、である。つまり正しいことの正しい扱い方とは何なのか、一体どうすればその正しさを体現した世界を叶えられるのかという問である。

 

 

何が正解なのでしょう

自分ひとりでそれに従って生きる場合には、下手をすれば誰にも気づいてもらえない可能性がある。その正しさに従う人(=自分)を確実に世界にひとり増やしたという意味では素晴らしい功績であるが、世界からすればそんなのはゴマ粒みたいな変化に過ぎない。他人にもそれを広める場合には、どんなに言い方に気をつけても反感を抱かれる可能性がある。何かを提唱することは即ち今の世界を変えたいということ。不穏感を抱かれるのも当然である。その正しさが実現しないだけでなく余計遠のく恐れさえあるだろう。何もしない場合には、当たり前だが世界が今まで通りで何も変化しない可能性がある。正しいことは正しいのだからいずれ自分含め皆が勝手にそれに近づいていくと考えるのはただの希望的観測かもしれない。

 

 

知ることは誰にでもできる

正しさの正しい扱い方を知ることは正しさを知るよりもずっと大事である。正しさは人の数だけあるのだから、それはむしろおまけみたいなものだ。自分の信じた正しさが絶対的に正しいと思えば思うこそ、その扱い方には慎重にならなければならない。方法を間違えれば叶うものも叶わなくなってしまう。正しさを知ったと思うと人は傲慢になりやすい。でも知ることは実は誰にでもできるのだ。それの扱い方を心得、体現していくことが本当の難関なのである。

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