底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

思考の範囲を限定する

思考の使いどころ

思考はすればするほど良いものだ。時間的な制限がないのなら、どんな物事においてもとことん考えてから答えを出すべきだろう。考えすぎるなんて言葉があるが、そんなことは無い。どれだけ考えてもむしろ足りないくらいである。考えたら考えた分だけ何かを得られる。何をするにもそうだろう。しかしこれはあくまで「する」と決めた後の話だということには注意したい。つまりはその「する」を実現するためにこそ考えることは有用的であって、決して「なぜするのか」などという方向に考えることを使ってはいけない。それは得てして出口のない迷路だからである。

 

 

理由は神のみそ汁

人がある行為をする理由は考えれば考えるほどに分からなくなる。なぜそうしたのか文脈的に説明できることはあっても、それが果たして本当なのかは誰の知るところでもない。どれが本当の理由なのか、本当に理由などあるのか、それはもはや神の領域なのである。人にはどうしたって知りえない。だから、神でない我々は知らないままに何かをするしかないのである。妥当な理由を宛がってから、なんて思ってはいけない。そんなものは決して見つからない。我々はいつでも必ず無責任に無根拠に何かをし始めなくてはいけないのだ。そうして「後から」さも妥当性があったかのように、それを自分の選択として回収するのである。

shikouzakki.hatenablog.com

 

 

思考の範囲を限定する

無責任に無根拠に何かをすると決めてからがやっと思考のお出ましなのだ。思考の範囲を限定しておくのはとても大切なことである。することの理由づけに思考を使って答えを出そうとすれば、したい以外には正しさを持ち出すしかなくなってくる。正しいからそれをしているのだとするのは、最悪なパターンである。正しさを味方につけたと思うと人は簡単に意気揚々になり、我を忘れて他人を断罪する。ネットでよく見かける光景だろう。でも実は正しいことを言っていても、正しいことを言うことが正しいとは限らないのである。

shikouzakki.hatenablog.com

 

 

するに優劣や正誤はない

思考は自分のするを叶えるためにある。する以前に遡って理由を真面目に考えれば考えるほど迷路に迷い込むことになるし、かといって何かの答えを出そうとすれば今度は幻想の正しさに着地せざるを得ない。何もいいことがない。それらに対しては思考停止でいるべきなのだ。ただするを叶えるためにはどうしたいいかと、そちらに一所懸命思考を振り絞るのである。全ての行為の理由の元を辿れば、それは「なぜか」したとしか説明ができない。自分も他人もそうなのだ。だから他人との「する」が違うのは当たり前で、犯罪行為でない限り、どんなするの間にも優劣や正誤はないのである。

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