底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

だいたい同じで十分

僅かな差異が気になってしまう

言葉がありすぎたせいで人と人がすれ違う。そういう現象を時たま目にすることがある。好きか嫌いかという大きな括りで見れば同じ好きであることに変わりはないのに「どう好きか」や「どれくらい好きか」などが食い違って軋轢が生まれる。本当はとても僅かな差異であるのに、それが気になって気になって、自分から線引きをしたり、相手の好きを否定したりしてしまう。もし好きを表現するための言葉がただ「好き」の二文字しかなかったのなら、きっと普通に意気投合していたであろうに。傍から見ればただただ勿体ないと思う。




違うからって否定するもんじゃない

細かく分ける。そのこと自体はもちろん悪いことではない。それはむしろ世界や自分に対する解像度を上げることなのだから端的にいいことである。問題は他人との正確な一致を求め、そして違った時にそこに何らかの価値判断をつけてしまうことである。好きの形は人それぞれ。自分と違っているからといって、だからその好きは本当の好きではないなんてことにはならない。自分の理解できない形なのだとしても、その好きが誰かに迷惑をかけているのでないなら、疑いを持っていい理由はどこにもない。自分の好きに価値を持たせたいからといって、他人の好きを踏みにじってはいけない。というより他人を落としてやっと自分の好きを確かなものと思えるようなら、その自分の好きをこそ本当かと疑ってみるべきだ。




最初から違う

例えとして好きを出したが、ほか多くのものでこのことが言えるだろう。辛さや苦しみや幸せや努力などなど。それらの形を比べ、違いに何らかの基準で可否をつけるのはただ不毛であるだけだ。自分と他人は別の人なのだから、完全に何かの形が一致することなどは不可能であり、可能に思えたとしても、それは都合のいい切り取り方をしているからに過ぎない。違っているのが当たり前であり、違っていてもそれはただ最初から違っているだけで、その差異には如何なる意味もないのである。




だいたい同じで十分

言葉は人と通じるためにある。形はどうであっても「好きだ」という言葉は誰しもに共通している。それが言葉の良さであったはずだ。どんな好きもきちんと好きと認めた上で、形の差異をそれぞれの好きの現れの違いとして楽しむ。人としてそれくらいの余裕はもっておきたい。大きく違うものなら最初から比べられない。よく似ているもの同じようなものだからこそ比べられるのだ。比べている時点でだいたい同じなのである。人間ひとりひとり違うのだから、だいたい同じであればもう十分すぎるくらいに十分であろう。形の僅かな差異に気をとられ過ぎてはいけない。