底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

他の人の作品を評価することの意味

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どうして人は誰か他の人の作品に対して「上手」や「下手」などと評価できるのだろうか。上手や下手というのはつまり作品自体に対する優劣の評価だが、もし鑑賞する側にとって作品に優劣があるとすれば、それはすごく不思議な話ではないだろうか。だって、この世にはたくさんの人間がいて、みんなそれぞれで全然感性が違っている。だから自分の感性に合う作品もあれば、合わない作品も当然たくさん世に存在しているだろう。そんな中で鑑賞者はどうやって「自分の感性に合う」と「上手」を、「自分の感性には合わない」と「下手」を区別できるのだろうか。

 

 

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作る側にとっての上手下手は明確である。それは偏に自分の理想とする形のものを再現できているかに尽きる。シンプルに、理想により近いものが上手で、かけ離れているものが下手ということである。だが鑑賞者はそもそも作り手の理想を知らない場合がほとんどだ。その理想を知らない状態で上手とか下手とかの評価をできるとしたら、それはどんな意味での評価なのだろうか。もちろん自分の感性に合う合わないはここではなしだ。それ以外での鑑賞者による評価の基準があるのか、あるとしたらそれはどんな基準なのかと問うのが今回の記事の趣旨である。

 

 

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例えばこれが学問の話なら、そこには明確な基準があると言える。学問とは概して世界の新事実を発見するものだからだ。真に世界の新事実であることを次々発見できるのならそれは学問をするのが上手だと言わざるを得ない。それが真に世界の新事実かどうか分かるレベルの知識がきちんとある人になら、誰にだってその上手さの判別が可能である。或いはスポーツの話でもそうだ。スポーツにおいての基準はもっと分かりやすい、つまりは勝負で一番勝った人が上手な人である。

 

 

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鑑賞者が他の人の作品に対して上手や下手と評価する時には「もし自分が作るならどう作るか」という鑑賞者から作り手側への視点の置き換えが為されているのではないだろうか。つまりこの場合は、自分が作るなら同じように作るが上手で、自分が作るならそうは作らないが下手となる。しかしさっきも書いたが、鑑賞者は作り手の理想を知らない。そんな状態ではまず「自分が作るなら」という同じものを作る前提での仮定は成り立たない。だから、その評価の意味は常に宙に浮くことになる。それは結局「その作品は自分の理想かどうか」という自身の感性が基準になっているからだ。他人の作品が自分の理想とする形だから上手、そうではないから下手だと評価するのは、なんだかおかしな話ですね。だって他人の作品は自分の理想を叶えてくれるためのものではないのだから。自分の理想は自分の頭の中にしかないのだから。

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