底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

書くことにまだ残されている良さはなんだろう

書くことと話すこと

書くことは話すことに比べて、受け手から送り手に伝わる時間的ラグが大きい。いい意味で言えば、何百年何千年前を超えて届くことさえあるくらいに時間を超える力を持っている。だが逆に言えば、それは今同じ時を生きている人には不向きであるということ。時間的ラグが大きければ、どうしたって言葉を交わすのは難しくなる。同じ時間を相手と共有できないから、お互いにそれぞれ別の話をしているような断絶の空気が漂ってしまうのである。こちらは話すことの役目なのだ。話すことはラグが限りなく小さい、ないと言ってもいいくらいに。だから、お互いのそれぞれの言葉が同じ時間の中で溶け合うことができる。話すという行為を通じて、相手と同じ時間を生きられるのである。

 

 

技術の進歩恐るべし

動画や録音がある今の時代、書くことと話すことの差異はもうぐっと小さくなっているのかもしれない。自分の話したところを撮って残すのと、ノートなどに文章として残すのと、そこにどんな違いがあるのかと問われると、もはや本当に話しているか書いてあるかのそれだけの違いではないかという気がしてくる。書くことの圧倒的メリットであった「時間を超えられる」が、話すことにも装備され始めているのである。そんな時代において、書くことの良さには何が残されているのだろうか。話すことよりも書く方が面倒であるのは言うまでもない、それなのに書くことの一番のメリットまで話すことに吸収されつつある。うーん、もしやもう何もないのでは…?

 

 

このブログにも需要ありますよね?ね?

いやいや、そんなことはないだろう。少なくとも未だ本という媒体はまだまだ生き残っているし、ブログだって、そんなに多くはないとしても、書く方にも読む方にも一定の需要は依然あるであろう。必要としている人は今もいるのである。その限りで、やはり書くことには良さが残されていると言える。

 

 

言葉は鏡

個人的には、書くことの良さは孤独にあると思っている。話すことは録音するにしろ、どうしてもそこには声という言葉以外の情報を残すことになる。それは孤独にとって端的に余計なものだ。書くことは言葉しか残せない。自分の伝えたい全てをどう言葉に落とし込むか、そこのみで勝負するしかないのだ。あるのは自分と言葉の二つだけ、その孤独感にとても痺れる。読む方も言葉以外に何の手がかりもない。言葉から何を読みとれるかは全て自分にかかっており、最終的にどう読むかも完全に自分で決定しなければならない。書く方にとっても読む方にとっても、そこにある言葉は自分の精神の孤独を映す鏡なのである。

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