底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

べきと犠牲について

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存在するということは必ず何かの犠牲の上に成り立っている。何かの犠牲なしに他の何かが存在することはできない。…のだろうか。そうではないはずだ。少なくとも存在の構造的には、そうなっていない。全ての存在はただ突如としてあっただけに過ぎない。何の犠牲もなしに全ては「なぜか」ただあったのだ。そこに犠牲という概念が生まれる余地はない。存在することは何も犠牲にはしていないし、そもそも犠牲にできるようにもなっていない。問題は存在することではなく、存在し「続ける」ことにあるのだと思う。つまり、存在を毎瞬「たまたまなぜか」存在しているのではなく、毎瞬繋がって存在しているのが当たり前であり、その上そのように存在している「べき」だと捉えるところに、犠牲は顔を覗かせるのではないだろうか。

 

 

2

存在し続ける「べき」であったものが、何か別の存在によってそれを阻害された時にこそ、我々は犠牲という概念を持ち出すのだ。災害によって人の命は失われる「べき」ではなかった、人々は存在し続ける「べき」であった。だから、それは犠牲なのである。べきのないところに、そもそも犠牲は生まれ得ない。べきがなければ、どんなことでも、ただそういう現象が起きただけに過ぎないと言えるのだから。

 

 

3

ところで、人は存在し続ける「べき」存在だろうか。そんなことはないですね。およそどんな観点から見ても、そう言える根拠はない。人も所詮は生き物、そこにあるのは、ただ存在し続け「たい」という願いだけである。その意味では人は何も犠牲になどしていない。我々もただの一現象であり、全ては自然の摂理として今あるようにあるだけに過ぎない。だが、人は完全にはそう思えない。なぜなら、やはり我々は存在し続ける「べき」だからである。もっと言えば、我々は存在し続ける「べき」存在である「べき」なのである。

 

 

4

もちろん、それは「我々にとって」という主観的な話だ。しかしだからこそ、それは主観的な話に留まらないのである。「べき」が主観的であればあるほど、それは客観的なものとして、本人達の目に映ることになる。集団的に同じ見解を持ち合わせているのなら、尚更だ。社会の多くが同じ何かを望めば、それは簡単に規範へと成り代わる。だから、冒頭に書いた文言は、半分は正解である。我々は存在すべき存在なので、常に他の何かを犠牲にして生きている。何かの犠牲なしに、我々は存在することはできない。だがやはりもう半分は不正解だ。我々も所詮はただ生きているだけである。

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