底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

隠せない弱みはバレる前に自ら見せる

弱みの見せ時

弱みとはつまり「そこに触れられるとダメージを受ける」の意味であるから、生物的な観点から言って当然隠している方がよいだろう。でもこれは隠せる見込みがある場合に限られる。人間の場合隠せないのに無理に隠そうとすると挙動が怪しくなり余計にバレてしまうし、弱みに触れられた恐怖で過剰に自己防衛に走り他人に迷惑をかける可能性が高いからだ。隠せそうにない場合は最初から自分で他人に見せる方が良い。生物の本能的には考えられないが、人間なら自らに予め他人に見せた方が往々にしてお互いのためになるのである。もちろん相手が人の弱みを攻撃するのが趣味というような人の時は話が別だ。あくまで自分と好意的に関係を築いてくれそうな人、最低でも悪用してこないとはっきり確信できる人の前で、に限った話である。




傷つかない方法は三つ

身体の弱みは全人類に共通して同じ箇所だが、心の弱みは人の数だけ箇所が異なる。その上目にも見えない。だから時に自分の心が傷つけられるのはある意味で仕方のないことであり、それは誰かが悪いのではなく、強いて言うなら世界の構造のせいである。もし自分が傷つきたくないのなら、そもそも他人と関わらないか、端的に隠し通すか、どちらも無理なら自分の傷つく箇所はここだと相手に知ってもらった上でして欲しくないことを伝えて、それをしないようにお願いをするしかない。これはどう足掻いてもそうである。他人に察して貰い優しさで気遣ってくれるのが理想かもしれないが、他人にそれをする義理はないし、仮にしてくれたとしても、他人は自分ではないのだから必ずどこかで解釈が不一致になり綻びが生じてしまうのである。




お互いのために

見せなくていいのなら、もちろん見せないに越したことはない。弱みなのだから当たり前である。でも隠せないのなら見せるしかないのなら、悪い形で露見する前に自ら見せるのが最適であろう。自分が傷つかないためにも、相手に傷つけさせないためにも。




弱みは正義ではない

自らに望んで弱みを抱える人はいない。皆仕方なく弱い箇所があるだけである。しかし弱みは正義ではない。変えられない弱みがあるから「正当に」配慮されるべきだと考えるのは、自分を世界の中心に置き過ぎである。弱み自体はどうしようもなくても、弱みの扱い方を心得ることはできる。どうしたら自分が傷つかずに済むか、それを考えられるのは世界の他の誰でもない。他人にどうして欲しいのか、どうして欲しくないのか、全部伝えなければ分かっては貰えないし、分かって貰えたところでその通りにしてくれるとは限らない。それでも他人と「よりよく」生きていくためには、地道に根気強くそれを繰り返していく以外にはないのである。