底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

我慢は必ず自分のためにする

1

自分が少しの我慢をすれば場が丸く収まるだろうということ。人生で誰しも結構な頻度で経験すると思う。ちょっと嫌だけど、それを言っても自分以外の誰も得しないしなぁと言葉を飲み込んで、何もなかったことにしてしまう。これ本当によくない対処法である。どんなに少しでもそれが我慢であることには変わりないのだから、その分だけ必ず自分の心はすり減っている。むしろ少しであるために本人でさえそのすり減りに気づかないことがある分、大きな我慢に比べてタチが悪い。一度きりならまだいい、重なってしまうと本当に心が死んでいくことになる。

 

 

2

自分が我慢しているのだから、本当は場は全然丸く収まっていない。自分だけしかそのことを知らないのだとしても事実は事実。何かをなかったことにできる、そんな神みたいな能力は人間にはない。なかったことにしようと決意して、そっと溜め込むのが精一杯である。一度溜め込んだものは、もう完全に外に出しきることはできない。どれだけ形を変えて発散しても、心に陰影は残り続けてしまう。人のために自分は我慢をしたんだという思いは、記憶喪失でもしない限りどうしたって消すことはできないのである。

 

 

3

我慢というのはみんなですれば、大して気にならない。平等に誰しもが我慢をしていれば、それは仕方のないものとして簡単に受け入れられる。だが一人でも我慢しない者が現れたら、すぐさま話は変わってくる。どうして私たちは我慢しているのに、あいつは我慢しなくていいんだと、必ずそういう疑問が湧いてくるからだ。自分一人だけが我慢する場合には、当然もっとその疑問が大きくなる。どうして私ばかり。我慢するのなら、せめてその疑問に納得できるだけの答えをちゃんと自分に用意してあげるべきだ。その方が誰も気まずくならないしみんなのためになるなんていうお飾りに過ぎない理由をテキトーに宛がうのでは、あまりに自分が不憫である。

 

 

4

我慢は報われることを求めている。この我慢がなんのためにあるのか、この我慢をして自分にどんなメリットが降りかかってくるのか。それが分かっていない我慢ほど苦行になるものはない。我慢をするのなら必ずそれが自分のためになるという回路を確保しておくべきだ。他人のための我慢は自分に納得をもたらしてはくれない、端的に他人のために我慢できるほどの大きい器は人間には備わっていないのである。それは得てして自分を傷つけている。我慢するのなら自分のために。我慢しないのなら我慢しない。自分を傷つけてまでする価値のある我慢はこの世にはないのである。

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