底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

個人主義は主義ではない

私は個人主義

人それぞれ正しいと思うことは全く違うので、他人に何か自分の思う正しさを強要したり説得しようとしたりするのは意味がないと私的には考えている。そのため普段何かの主義を掲げることは全くないのだが、まさにそれこそが私の主義とも言えるということに最近気がついた。そう、それはタイトルの通り個人主義である。だが個人主義はそもそも主義と言えるのか、に関しては甚だ疑問を感じている。何かが主義としてあるためには、そうではない可能性、つまり個人主義の場合で言えば、個人以外の何かが個人よりも大事にされる可能性があらねばならないが、それは本当に可能な事態なのだろうか。




個人主義は主義ではない

もちろん国家や社会などの大きな視点から考えれば可能であるが、しかし、やはり国家も社会も一人一人の人間から成っている。その一人一人の人間から考えると、如何なる主義を掲げることも全ては自分のためで、最低でも「その自分の考え」を大事にしているからこそ主義として主張するのであろう。自分が自分のことを大事にしないということは根本的に考えられない。自傷行為や自己犠牲のような一見自分にマイナスをもたらすような行為でさえ、それは自分の別の部分を守ったり自分の尊厳を突き通すために為されているはずである。個人は究極においては自分を大事にするしか術がない。それ以外のものを大事にしても、結局は「それ以外を大事にしたい」という自分の思いを大事にしていることになる。だから個人主義個人主義であることができない。個人主義と対立できる他の主義などそもそも存在していないからである。




個は断絶している

個人は人間界における最小単位にして、そもそも他の一切とは明らかに異質であり、かつその他一切の根本を担っているものでもある。個であることの断絶は他のどんなものよりも深く、その上決して乗り越えられるものではない。人は誰しも必ず一人で生まれ一人で死にゆくのである。




個人主義は掲げられない

人間である限り誰もが既に個人主義である。個人は大事にされるべきものではなく、大事にせざるを得ないものだ。そして大事にするのはもちろん自分自身を置いて他にない。個人主義を掲げることはできない。掲げた瞬間それは「私(の考え)を大事にしろ」というニュアンスに変わり、個人主義ではなくなってしまう。逆に言えば個人主義以外の主義は全てこの枠の中にある。どの主義もその人がその自分の考えを大事にしているということ以上の意味をもっていない。だからこそ、誰しもただ自由に己のそれに向かって邁進していけば良いのだし、実際誰しも既にそうしているのであろう。
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