底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

まずは同じ世界に生きなければならない

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私達は同じ一つの世界に生きているようで、その実、全く異なる世界を各人がそれぞれに生きているだけである。視点がある一人の人間に固定されているのだから、これはある意味で当然な話だ。誰だって自分と呼ばれる人の内側しか覗けず、他人に対してはその外面が分かるだけである。それでも日常生活の上ではさほど困らない。やはり、「その実」全く異なる世界を各人がそれぞれに生きているのであって、普段は同じ一つの世界に生きているように「見える」くらいの同じさは保たれているからである。

 

 

2

日常では困らないけれど、しかし、何かの核心に触れるような話になると途端にダメになる。なぜなら私達は普段の様子から私達は同じ一つの世界に生きているのだと信じているからである。信じているのに、現実はそうはなっていない。だから齟齬が起きて、よく言い争いになる。「同じものを見ているはずなのに」という前提でいるから、意見の違いを受け入れられない。「これを見たのなら、こう思うのは至極当然であるはずだ」と誰しもが思っている。しかし、そもそも私達は一人一人が全然違う世界を生きて、全然違う世界を見ているのである。

 

 

3

見え方が違うのではない。見えているものから違うのだ。人は意見の違いを見え方のせいにしたがる。価値観は人それぞれだと言って、すぐに相手と距離をとり線引きをしたり、相手が偏った見方をしているからこそ意見が食い違うのだと決めつけたがる。確かに事実として見え方の違いである場合もあるだろう。だが、多くはやはりそうではない。そもそも見え方の違いだと言えるためにも、私達は私達の見ているものが同じであると知っていなければならない。見えているものが同じと知っているからこそ、「見え方が違う」なんてもの言いができるのだが、私達はそれが本当であるか確認する作業をほとんどしたことがない。それはただ日常の困らなさの延長で無根拠に同じと信じてられているだけである。

 

 

4

見えているものが違うから、意見に違いが生まれるのである。自分には自分にしか見えていないものがあって、相手にも相手にしか見えていないものがある。それを確認もせずにお互いに既に共通なものとして、話を進めてしまうから、食い違う。何かの核心に触れる話をする場合、まずはお互いにその自分にしか見えていないものを極力誠実に提示し、相手に提示されたものを素直に受け入れ、一つ一つの見えているものの違いを潰して、本当の意味で「同じ世界」に生きなければならない。そこから話はやっと始まるのである。そこから始められた話だけが有意味なもので有り得るのだ。

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