底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

環境の改善はほどほどに

概ね満足でおけ

世界は私のためにあるのではないのだから、自分にとって百点満点と言える環境はきっとこの世界にはない。大まかな合う合わないはあるにしても、全てが理想通りで完璧というのは無理がある。だから環境を改善する一方で、自分の方が環境に合わせていく力も多少は身につけていかなければならない。環境の改善ばかりにかまけては、それだけで人生の時間を使い果たしてしまう。概ね満足な環境に行きついたのなら、後はそこに自分が適応していく方法を考えるのが妥当である。

 

 

自分の力で処理していく

概ね満足な環境において、それでも時おり発生する不満はもはや「やりたいと思っていたことがやりたいと思った時にできない」と「やりたくないことを時々はやらないといけない」くらいしかないのではないかと思う。大きな苦しみや強いられた我慢などは既に排除された後であるから、残るは日常的な上手くいかないなという程度のことであるはずだ。現実と理想の兼ね合いとして、それを自分の力で処理できるようになるのがベストである。じゃあどうすれば処理できるようになるのか。私的にやるべきことは二つ、「やりたい」の抽象化と「やりたくない」の見方を変えるのである。

 

 

抽象化と見方を変える

例えばやりたいことが将棋である人でも、四六時中将棋盤の前に張り付くのは無理がある。食事や睡眠をとらなければならないのはもちろんのこと、仕事や日々の雑務など生きている上で免れるのが困難であることは多々存在している。やりたいことを「将棋盤で将棋を指す」に限定すると、それら全てが「やりたくない」になってしまう。だがやりたいを「将棋に関わるならなんでもいい」に抽象化するなら、やりたくないことをやっている最中でも将棋について考えたり、妄想することができる。いつでもどこでも将棋に関れるようになり、やりたいことを常に行っていけるのである。そして更に「やりたくない」の見方を変え、それら全てを「やりたいをやるために必要なこと」と意味づけしたならば、およそ自分の生活の全てが「やりたい」を中心に回ることになる。それはどんな環境においても、ある程度自分の生きる力となってくれるのではないだろうか。

 

 

環境の改善はほどほどに

環境の改善はしようと思えばキリがない。思い通りにならないことがあるからこそ、何かが思い通りになる喜びがある。思い通りにならないことを一生懸命減らしていくより、どんな思い通りにならないことなら自分は許容できるのかと考えてみるべきだ。自分にとって百点満点と言える環境は、最後には自分自身が合わせていくことで完成を遂げるのである。

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