底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

嫌いを嫌悪に変えてはいけない

嫌いと嫌悪

「嫌い」と「嫌悪」をあえて分けて使ってみよう。嫌いは「不快を感じる」くらいの意味で、嫌悪を「消えてほしい」のような意味で使う時、果たして自分にはどのくらい嫌いな人がいて、どのくらい嫌悪している人がいるのだろう。不快を感じるからといって直ちに消えてほしいとはならないはずだ。軽い不快なら受け流せるし、受け流せないような不快なら相手と交渉するか、端的に次から回避することだって可能である......と言いたいところだが、そんなに簡単にいくのなら誰も苦労はしないのだろう。人と人の繋がりはそう単純なものではないし、誰にだって生活がある以上、不快を感じる相手とどうしようもなく何度も顔を突き合わせなければいけないような状況はきっと山ほどたくさんある。おそらく、その避けられない嫌いの連続が人に嫌悪の感情を抱かせる。最初は「これイヤだな」くらいの軽い気持ちだったのに、積もり積もって「この人さえいなければ」に変わっていく。ああ、恐ろしや。




できるだけ嫌悪は避けよう

嫌いは自分を守るために必要な感情である。それは次の不快を回避するために役立つ。だが嫌悪は端的にストレスでマイナスだ。回避不可能な嫌悪を一発で与えられる場合もあるので、それは仕方ないとしても、やはり持たないに越したことはない。感情は主語を持たない。誰々は愛しているけれど、誰々には消えてほしいと切り分けられるほど器用じゃない。嫌悪を持ち続ければ、そのうち消えてほしいでいっぱいになって、誰も彼も分別がなくなってしまう。




放っておかない

では、生活上避けられない嫌いを嫌悪に変化させないためにはどうしたらいいのだろう。たぶんその状況を自覚するのが最も手っ取り早い。避けられない不快が連続しているだけだと自分にきちんと説明してあげる。あとはやはり少しでも環境を変える。一気に変えるのは難しいから、新しいコミュニティを今の生活の中に一つ足してみるとか。古い環境を捨てなくても、新しい環境には飛び込める。とにかく放っておくのはまずい。嫌悪は一度抱いたら簡単には消せない、外的要因で強いマイナス感情を長い間抱けばいずれ自分の心が壊れることになる。




嫌いに留めたい

嫌いは人というより行為や環境に対するものだ。こうされたくない、こうしてほしくない、こんなところにいたくない。それがある特定の人から与えられ続けると、対象が変わって人になる。自分を守るためにあった感情が相手を排除しようとする感情に変わっていく。それは不自然な状態だ。相手を排除せずとも、自分が快適に暮らせる方法はあるはずだから、そちらを探すことに気力を傾けるべきなのは明白なことである。