底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

大人が忘れてしまうこと

ブログを書く一つの理由

私がブログを書く一つの理由には、もっと若かった頃の私がまさにこういうものを読みたかったということがある。子供の頃、周りの大人が教えてくれたことはただこの社会を生き抜くのに必要であるばかりで、肝心の世界が存在することの不思議や、自分とは何であるか、死とはどんなものでそれに対してどういう態度でいるべきなのかなどは、誰も口にはしなかったのだ。私が聞いても、そんなことよりも目の前の授業や宿題に集中しなさいと叱られるだけで、答えてくれる人は一人もいなかったのである。

 

 

大人は知らないということを知らない

今なら分かることだが、大人だってそんなものは知らない。そして更には知らないということも大抵の大人は知らないのである。だから答えられるわけなどなかったのだし、そもそもそれらの問いの意味すら理解していなかったのだろうと思う。大人になると自分が生きているということは自明すぎるほどに自明な事実になってしまうのだ。だからこそ世界があることも自分の存在も大人にとってはひどく当たり前なのであり、それ故に自分が死ぬということもしばらくは起きないだろうと、意図せず誰しもがたかを括っているのである。

 

 

仕方ないけどもう少しくらいね…

自分が大人になって思うのは、大人は確かにそうしないと生きていけないということである。大人は子供の問いをわざとはぐらかしているわけではないし、意地悪をしているのでもない。地に足をつけて生きていくためには、それらの問いを実感的なレベルで覚えていてはダメなのである。忘れてその中を生きていくのでなければ、人は一日だってまともに生活を送ることはできない。でもそれでももう少しくらい上手いやり方はあったと個人的には思う。実感的なレベルで忘れるのは仕方ないにしても、忘れたそのこと自体を覚えておくのは十分可能だからだ。知らないのだということを忘れないでいるのは人間の能力的には何の差支えもなくできるのである。

 

 

あの頃の自分読んでる?

そういう問を持つのは無駄で、そういう問には意味がなく、そういう問を問う暇があるのなら、生活に集中し懸命に生きていきなさい。そのような雰囲気が私は嫌いである。子供の頃誰だって考えていたことなのに、自分がそれを忘れてしまったというだけで、子供にも考えさせないように封じようとする流れが大嫌いである。悪意ではないにしても故意ではないにしても、仕方の無いことだったと割り切るのは私には難しい。このブログはだから子供の頃の自分に届けるつもりで書いている節があると思う。生きることは生きるを問うことに他ならないと今でも私は強く信じていると、あの頃の自分に伝えたい。

f:id:kabiru8731:20220612175712j:image